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進化

虫歯の治療中だ。わたしは子どもの頃から歯医者が大嫌い。あの「虫歯の人はダメな人」と言わんばかりの態度。(いや、わたしにそう見えるだけかもしれないが。)治療はとにかく、痛いし、怖いし、音がイヤだし、ニオイが苦手。しかも「痛かったら左手をあげてくださーい」という、あの「手遅れ感」も納得いかない。だって「痛かったら」は、「痛くなりそうだったら」ではない。一度は痛みを経験してから言え、ということだ。「こうなるまで放っておいたあなたが悪いんでしょ」みたいな空気感に完膚なきまでに打ちのめされる。傷つくのだ。歯医者の帰りはほんとうにヨロヨロと歩くことになる。家に着くまでの間にどこかに座って、お茶でも飲んで休憩したい。

「ノルウェイの森」を読んだのはどれくらい前だろうか。話の内容は、申し訳ないことに、ほんとうに全く思い出せないのだが、記憶に残る部分がある。主人公(だったと思う)が、歯医者へ行き、治療をする。主人公は今37歳で、「これまでのことはもういい。今、歯の治療をしたら、この後一生、歯科医にいかなくて済むように毎日メンテナンスをすればいい」と考えるシーンだ。

だからわたしも、徹底的に治療してもらおうと決めた。歯医者が怖くて、逃げ回っている場合ではない。もういい大人なんだから。
当時、腕が良いと評判の歯科医に見てもらったところ、「今ある奥歯は、全部何かしらの治療が必要で、ほとんどは銀歯をかぶせることになります。」と言われた。自分が笑った顔を想像してみる。悪夢だ。「セラミック製の白い歯を入れることもできます。お値段は1本5万5千円〜9万円です。」

当時のわたしは会社員で、月々の安定した収入があった。だから上下顎合わせて7本、と言われた時に「セラミックで」と答えた。だって、これが最後の治療だから。もう虫歯になんて、絶対にならないから。

それから15年。確かに、歯科医のお世話になることはなかった。ところが先日、奥歯に違和感があるので、ムスメのかかりつけの歯医者に見てもらった。先生はレントゲンの結果を見て「これは、かなりの投資をしていますね。でも、この被せ物の土台になっている部分が虫歯になっているようです」と済まなそうに言った。

絶望的な気分。あんなにお金をかけた歯を外してしまわなければならないなんて。でも、5万円の歯を15年間使ったことを考えたら、年間3333円だ。そう考えたら「元を取った」と思えるし、諦めもつく。とはいえ、今のわたしの収入はほとんどないと言ってもいいくらいだから、新しい被せ物は家計から捻出していかねばならない。それをオットになんと説明するか。それとも保険診療で銀色の金属を被せて、3200円で済ませるか。迷いに迷っているところに、先生が言った。「この歯は保険診療で白い詰め物ができますからね」耳を疑って、先生を二度見した。

今は、噛む力に対する歯の強度の問題で、一番奥から2本目までは金属でなければならないが、それよりも前の歯は、樹脂製の白い歯にできるそうだ。15年の間に医学は進歩しているのだった。

昨日、歯科医で古い方の被せ物を取ってもらった。でも、その土台に打ち込んである金属の塊が取れない。先生がドリルで削りながら様子を見ているが、全く外れないらしい。「ここを治療した前の先生は『これが最後』と考えて、ガッチリとした土台を入れたんでしょうねえ」と言いながら、悪戦苦闘をしている。「医学は進歩するので、その時に完璧でも、案外すぐに新しい治療法が出てきたりするんですよ」と、わたしの歯を途中まで削ったところで「すみません、あと1時間半くらいかかりそうなんで、2回に分けていいですか」と先生は言った。おかげで来月の半ばまで、わたしは銀色の犬歯のように見える変な歯を持つ顔で過ごさなければならないのだった。

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