見出し画像

なかったことにはできない声

2011年3月16日に撮影した写真である。東京電力福島第一原発が爆発し、携帯に毎日「早く逃げて」と心配の声が届くなか、政治家からは直ちに影響はないと言われ、自治体からは不要な外出は避けてと指示され、しかしそれでも、クソを流すための水を汲みに行かねばならず、食うために、そしてなにかあったら逃げるために、津波で破壊された地元の港を横目に、スーパーとガソスタの前で何時間も並ばなければならなかった。

そういう大混乱のさなかぼくが「ピース」をしているのは一言で言えば虚勢であろう。不安と心細さと、「被曝なにするものぞ!」という空元気と虚勢、そして愛郷心。当時の心境を言葉にするのは今でもなかなか難しい。このような事態になっていたんだということを遠方の皆さんに説明するには、やはりこの写真は不可欠だ。残っていてよかったと今では思う。

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」に展示されたチンポムの作品が炎上していて、え? なんであの作品が炎上すんの? わけがわからねえ、むしろ、あの当時の若者の偽らざる虚勢や、その虚勢を張らざるを得ない状況、その悲壮なまでの空元気が心を打つ作品なんじゃねえの? と、2011年3月16日にピースをしていたぼくは思ってしまうのだ。

作品のなかの若者たちは、被曝しながら瓦礫の片付けまでしていたわけで、そういう若者が「放射能最高」と叫ばずにいられなかった当時の状況を思わずにいられないし、彼らをしてそこまでの言葉を口にさせてしまう状況があったんだな、こういう声があったんだな。その事実の大きな質量が画面を通じて伝わってくる作品だと思っていた。

もちろん、アートの側の「文脈を読め」とか「これがアートなんで」という態度に対する違和感もわかる。放射能への不安を吐露すると「科学を理解できないバカ」と言われるのと、もしかしたら似ているのかもしれない。科学の棍棒、アートの棍棒、ありますものね。ただでさえ気持ちを害されているのにアートの文脈を理解しろと頭ごなしに言われたら面白くはない。

それに、震災後、感動のストーリーや怒る被災者に仕立てられたり、「コミュニティの再生」のダシに使われたりした経験はぼくにもあるから、作品に取り込まれる、搾取/消費されることへの怒りみたいなものも分かる。それはそれとして批判すればよいと思う。そういうものに向き合うのがチンポムだとも思うので。

ところが、今回は(というか今回も)「地元民に失礼」とか「ふるさとを傷つけられた」とか「揶揄するなんて許せない」とか「全福島県民から訴訟されるべき」みたいな大きな意見がツイッターで散見されていて、繰り返される光景に頭を抱えてしまった。

被害者ポジションの位置取り競争、佐々木俊尚の言うところの「マイノリティ憑依」の光景。当然福島にもいろいろあって色々な意見があるのに、それを無視しして「当事者はこう言っている」みたいに憑依して、だれかの意見を封殺しようとする。以前は左翼的なふるまいだったのかもしれないけれど、特に現在のツイッターでは右も左も関係なく、被害者の位置から異論を封殺するという動きが大きくなり過ぎている気もする。

思い出すのは、たしか2014年だったと思うけれど、「福島県産品は心配なんで子どもに食べさせてない」とツイッターで投稿した大塚愛が大炎上したときのことだ。ふざけるな、風評加害だ、傷つけられたというわけである。けれど、大塚愛は自分の選択を口にしただけだ。ましてや当時の状況から言って、福島県産品を食べる人のほうが圧倒的多数であり、福島県産品を忌避する人は少数で、むしろ「科学を理解できないバカ」扱いされていたのだ。差別されていたのはもしかしたら大塚のほうかもしれない。

たしかにぼくたちは「福島では何万人も死ぬ」的な言葉を投げつけられてきたから、大塚の発言にも似たような響きを感じてしまうのもわかる気がする。けれども、そういう発言によって自分の暮らしが危ぶまれるわけではないし、世の中の大勢は福島県産品を買って食べている。何万人も死なないことなんてわかりきっていて、別に遠方に避難しているわけでもなければ、家賃補助を打ち切られるわけでもない。つまり圧倒的なマジョリティの側に立っているわけだ。

マジョリティの側に経っている人が異論を排除することの「加害性」にも思い馳せるべきではないだろうか。マジョリティの自分が被害者の側に立つことで、さらなる少数のマイノリティは抑圧される。だから、自分の発言が、だれかの声なき声を消してしまっているのではないか、と想像することはできるはずだ。(だからこそ余計に、原発事故を伝えることの難しさも感じるわけだけれど。)

当事者の領域争いをしても、被害者の位置取りをしても、結局、当事者は多様であり、色々な声があるのだから、自分とは違う意見が出てくるのは当然だ。批判や意見の応酬はあるべきだけれど、その発言自体を(「放射能最高!」という言葉を)ないことにはできないし、その声が「正しい・正しくない」とだれかが勝手に決めた基準で排除されてもいけない。一体だれにそれを決める権利があるだろう。

もっと最悪なのは、仮に冷静に意見が交わされたとしても、ツイッターという「文脈無視装置」によって、そのやりとりが完全に党派的なもの回収されていくことだ。「ヘイト」という言葉を使えば、あたかも自分たちは被害を受けたのだ、あいつらは悪なのだという位置を取れてしまう。作品の中身を吟味するわけでも、専門知を参照するのでも、実際の場に足を運ぶこともなく、みなが「傷ついた」、「私たちこそ被害者だ」という「情」で相手を封殺することができ、それをしようとしているように見える。

ぼくも似たようなもので、あのツイッターの環境にいると思わず反論したくなったり、「けしからん」「許せん」と思ってしまう。ぼくもつまりツイッターを使いこなせてはいないわけだ。だから、そういう被害者ポジに立って自らの「被害者性」をドーピングしてバズらせるという競争に疲れてしまったということかもしれない。

もちろん、ぼくのこの投稿だって、だれかの意見を封殺しかねないことは自覚している。けれども明確にしておきたいのは、だれかの言葉をなかったことにはできないし、その声を、マジョリティ側の価値観で、正しいとか正しくないと決めてはいけないということだ。

当事者にもいろいろある。そのいろいろを、正しいとか正しくないとか、けしからんとかいう線引きで消すことはできないし、排除してもならない。自らの加害性を自覚することなく被害者としての声だけで押し切ろうという人たちよりも、自分たちの加害性に目を向け、「ピカッ!」のあとに広島の人たちと語ったチンポムのほうがよほど真摯だと思わずにいられない。

これは自戒を込めて書くのだけれど、批判はやはり「作品」に対して加えるべきだ。批評するためには学ばないといけない。そうして言葉を獲得することで、自分のなかの怒りから距離を取る。そうでもしないと、やがて「情」に身を滅ぼされてしまう。自分が表明する「許せない」という感情がどこからやってきて、どこへ向かうのか。自分はマジョリティの側に立っているのではないか。じっくりと向き合うためには、やはりしばらくの間、タイムラインから離れたほうがいいのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?