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11月の学園祭を振り返って

学園祭でジャーナリズムを捉え直す

 碩路の設立一年半が経つが、来年度は登録団体として活動は難しいと考える。部員の活動頻度の低下とともに団体としての存在理由を失ったからだ。私代表が皆をまとめられなかった反省もあるが、今回の学園祭を通してイデオロギーとしてのジャーナリズムを捉え直した時、それが抱える構造の問題が碩路の失速の原因の一つになったのではないかと考えた。学園祭は今まで制作してきた記事をパネルに掲示し、お客さんに読んでもらうという内容だった。

(1)ジャーナリズムの定義と私の考え

 ジャーナリズムとは元々、情報を集め、大衆に広く伝える活動を意味する。古くは新聞がメディアの代表として君臨し、新聞学として研究されていた。ドイツにおけるそれらの研究がジャーナリズム研究の土台を作ったとも言われる。故にイデオロギーとしてのジャーナリズムというものは、個人の思想の域に留まる。今回は私なりのジャーナリズムの意義を考えた。
 報道活動の大義は何だろうかと考えた時に、情報を持つ者と持たない者の間を仲介する役割にあると考えた。各メディアは大衆に向けて情報発信を行うが、情報を広く知らせることもそれ自体が大きな意味を持つ。一方で、情報を受け取った者皆が情報の当事者(情報提供者ではなく、情報にある人・物の意味)に対して直接的な影響力を持てる場合は少ない。例えばある町の公害問題が大々的に報道されたからと言って、海を超えた場所にいる人がその問題解決に直接携われるとは分からない。情報を受け取った者の中から、身近に問題意識を持つ者や、有力な解決策を持つ者が呼応し、実際の問題解決に繋がる場合が多いと考える。第一には、多くの人々に情報を伝えること。願わくば、情報を受け取った人から共感やアクションが生まれ、情報の当事者と繋ぐ役割を果たすことがジャーナリズムの大義なのではないかと思う。学園祭でも記事内容を読んで頂けず去っていく人が多い中で、じっくり記事を読み、自分の体験と関連されて考え、ご感想をくださった方もいた。情報の当事者を繫ぐ役割までは果たせなかったものの、記事内容へ共感が生まれたことは私の喜びになった。

(2)イズムにおける役割喪失

 社会的に重要な役割を担ってきたジャーナリズムだったが、近年、テレビや新聞の持つ影響力よりもSNSの持つ影響力が幅を利かせている。SNSでは情報を持つ者と情報が欲する者が直接やり取り出来るため、そこにジャーナリストが介在する余地が減少した。人々が情報源に繋がることにSNSを多用し、反比例してマスコミへの関心が低下していると考える。これはイズムとしてのジャーナリズム、「情報によって人と人とを繫ぐ」大義の達成を困難なものとする。マスコミ業界の衰退が進む理由の一つにこうした役割の喪失という問題があると考える。広く人に情報を知らせる本来的な定義のジャーナリズムは生き残るが、個人と個人を繫ぐような役割はSNSに取って代わられる時代に突入してきた(要検証)。
 自分たち碩路の活動は、自分自身が学びを深めることが第一にあるため、イズムとしてのジャーナリズムを達成できるかは最終目的では無い。しかし、大義を果たそうにも難しくなったジャーナリズムへの従来の関心が失われた時代に、報道サークルを作ってしまったこと、そもそもが碩路が活発化しなかった原因の一つと考えた。学園祭2日目の朝にそう思い、ちょっと気だるくなってしまった。なんだかんだで170名のお客さんに来て頂き、無事に終えることが出来て良かった。一連の自分の考えはジャーナリズムを歪曲した解釈かも知れない。まだまだ理解を深める勉強は必要である。記事制作は非公認団体となった後も続けていこうと思う。

あとがき

 気難しい文章を読んで頂きありがとうございます。碩路は学習記録として記事を書いて、それがもし誰かに読んで頂けたら嬉しいなというサークルですから、結局は勉強サークルです。勉強への大学生の関心は課題やレポートに持っていかれるので、それも上手くいかない原因かなぁと思います。それでも色々楽しいこともあったので、良い思い出です。
 学園祭は準備がとにかく大変で、部員と共に昼夜を通して準備して完成させました。展示で好評だった碩路活動失敗談を今度、noteにて投稿したいと思います。今度のフィールドワークでは東京下町散歩を企画しているので、記事を楽しみにお待ちください!

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