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スラップ訴訟(SLAPP)とは何か

日本産婦人科医会報3月号掲載の衣笠万里先生の執筆記事「HPVワクチンに関連した名誉棄損訴訟」を、編集部の許可のもと転載します。医師向けに書かれたものなので少し専門用語が多いですが、これまでの経緯をコンパクトにまとめていただいています。

ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチンは現在、世界140ヶ国以上で認可されており、そのうち80ヶ国以上で公的接種プログラムに組み込まれている。同ワクチンが認可されてから10年以上経ち、その有効性と安全性に関するエビデンスが世界中で蓄積されてきた。しかし日本では同ワクチン接種後に多発性疼痛・運動障害・学習障害などの症状が現れたとして、国および製薬会社に対して損害賠償請求訴訟が起こっている。同ワクチンは今でも定期接種でありながら積極的に勧奨されておらず、接種率は対象者の1%以下と低迷している。そしてHPVワクチンに関連してもう1件の裁判が進行中である。

2013年度からHPVワクチン接種後の有症状者に対して適切な医療を提供することを目的に、厚生労働科学研究事業として信州大学医学部長であった池田修一氏を班長とする研究班が立ち上げられた。2016年3月の成果発表会で池田氏は同ワクチン接種後に様々な症状をきたした症例を紹介した後に、鹿児島大学と信州大学における患者のHLA型の調査結果を報告した。同氏はHLA-DPB1と呼ばれる遺伝子の中で*05:01という型を有する患者が鹿児島大学では19人中16人(84%)、信州大学では14人中10人(71%)であり、日本人全体での同遺伝子頻度(約40%)と比べて2倍前後高く、このHLA型が疾患感受性と関連しているのではないかと述べた。翌日にメディアは「子宮頸がんワクチン 脳障害発症の8割で同じ遺伝子」などと大きく報じた。

 続いて池田氏は病態解析のためにマウスを用いておこなった実験成績を紹介した。実験ではマウスにHPVワクチン・B型肝炎ワクチン・インフルエンザワクチン・対照液を接種した後に自己抗体の脳への沈着の有無を評価した。その結果、HPVワクチンを接種したマウスにだけ海馬に自己抗体沈着を示す陽性反応がみられたと池田氏は報告した。海馬は脳の中でも記憶に関わる領域である。そして池田氏自身がテレビ局の取材に対して「子宮頸がんワクチンを打ったマウスだけに脳に異常な抗体が沈着して、海馬の機能を障害していそうだ。」「明らかに脳に障害が起こっている。ワクチンを打った後、こういう脳障害を訴えている患者の共通した客観的所見が提示できている」と説明している映像が全国放送された。これは衝撃的であると同時に、にわかには信じがたい内容でもあった。

 そこで以前からHPVワクチンについて精力的に取材・執筆してきた医師・ジャーナリストの村中璃子氏が上記実験に携わった研究者に直接取材を行なった。すると同研究者は実際には容易に自己抗体を産生する特殊なマウスにワクチンを打った後でその血清を別の正常なマウスの海馬にふりかけて反応を見たこと、HPVワクチン以外のワクチンでも陽性反応が出たこと、それにもかかわらず池田氏はHPVワクチン接種マウス由来の血清をふりかけて反応がみられた1枚の画像だけを示して上記発表を行なっていたことを告白した。事実であれば明らかな研究不正であると言わざるを得ない。

 また先に述べたHLA型について池田氏らはHLA-DPB1*05:01の遺伝子保有率と遺伝子頻度を混同していたことが判明し、実際には日本人全体の遺伝子頻度約40%と比較すべき患者の遺伝子頻度は鹿児島大学で57%、信州大学で46%であり、それぞれ有意差は認められなかった。

 このように科学的・倫理的に問題の多い池田班の発表に対して村中氏は雑誌Wedgeに「子宮頸がんワクチン薬害研究班 崩れる根拠、暴かれた捏造」と題した記事を寄稿して大きな反響を呼んだ。それに対して池田氏はHPVワクチンに関連した神経障害の可能性を示唆しただけであったのに、「捏造」と断定した同記事の影響で職務を遂行することが困難となり退職を余儀なくされたとして、村中氏や出版社に対して名誉棄損訴訟を起こした。

 かかる状況の中で村中氏は英国の科学誌Natureが主催する「ジョン・マドックス賞」を受賞した。これは障害や敵意にさらされながらも健全な科学を広めるために貢献した個人に授与されるものである。一方で池田氏に対しては厚生労働省から「不適切な発表によって国民に誤解を招く事態となったことについての社会的責任は大きい」という厳しい見解が示された。

 「捏造」の意味を広辞苑で調べてみると「事実でないことを事実のようにこしらえて言うこと」と記述されている。HPVワクチンを接種したマウスだけに脳内の異変が生じていたという事実がないのにそのように発表したことは「捏造」の誹りを免れないのではないだろうか。もしも実際に発表通りの実験結果が得られていたのなら、池田氏は訴訟ではなく学会発表や論文投稿でその成果を世界に知らしめ、自らの名誉を勝ち取るべきであった。しかしそのような文献は見当たらず、その後、厚生労働科学研究成果データベースに収められている池田班の研究報告書には、マウスの実験では一定の成果が得られなかったと結論されている。また同報告書にはHLA遺伝子とHPVワクチン接種後の症状発現との関連は見出せなかったことも記されている。

 本件訴訟の結果がどうあれ、それはHPVワクチンの安全性や有効性とはまったく無関係である。しかし国庫からの助成金を得ながらこのように意図的とも思える不適切な成果発表を行なった原告医師が、健全な科学を広めるために独自の執筆活動を続けてきた被告医師の言論を訴訟によって封じ込めようとするのは、まさしくスラップ訴訟(※)であり、決して容認できない。3月26日に判決が下されるが、 裁判官には公共性と社会正義に照らして良識ある判断を望みたい。

※スラップ訴訟(SLAPP: Strategic Lawsuit Against Public Participation):恫喝的訴訟ともいう。社会的に優位な立場・地位にある者が、相対的弱者を相手取り訴訟を起こすことで、社会的恫喝あるいは報復として機能することもある。

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