見出し画像

ピーチネクター


免許証を無くした私は、免許証を再発行するために運転免許センターへ向かった。流石の私でも免許証を紛失するのは初めてのことで不手際の中、冷徹でマニュアルに沿わされる窮屈な運転免許センターへ脚を踏み入れ、免許紛失・盗難窓口へ出向き、手続きを済ます。

そこまで頻繁に来るわけでもない免許センターであるが、こういった施設は何故か必ず混雑しているように思う。今日も混んでいた。免許証を紛失すると、本人を確認するための幾つかの「面接」というものが実施され、自分自身のことであれば簡単に答えられるがそうでない人間だと簡単には答えられなそうな質問をいくつか答えさせられる。そしてその「面接」をするにあたり4席ほどのパイプ椅子が部屋の隅に配置されており、私はそこの1番端に座り、3分もしないうちに隣の老父に話しかけられた。

「君も免許を無くした?」
「そうなのですよ」

「僕もさぁ車上荒らしに会ってね、免許証だけ取られたよ、最近は石狩の方で車上荒らしが流行っているみたいだよ!」

「それは大変ですね」

「なんせウチの女房が認知症で、家に重要な物を置いておくと捨ててしまうもんで、この前なんて通帳も捨てられたもんだから車しか置く場所が無いんだよ!」

私はこの施設の人間でもないのに全く他人の紛失事情を聞かされても特に何の面白味も無かったが、この新天地で出会った人間は1人もいない私はこの人間の話を聞かない選択肢は取らないでおいた。暫くするとその老夫が「面接」に呼ばれて、質疑応答を後ろで見る羽目になった。

「…では運転するにおいて条件という物があるのですが何か覚えてらっしゃいますか?」

「条件…ですか?ええと、何でしたっけ?」

条件というのは例えば普通免許だとか運転時眼鏡等着用義務などである。

そうこうしているとその老夫の質疑応答が終わり、私の番になった。私は老夫の質疑応答をほぼ真後ろで聞かされていたのでものの5分で時間は終わった。待合ロビーに出向き呼び出しを待っていると、後ろから肩を叩かれる。またあの老夫だ。

「ちょっとジュースでも一緒に飲みませんか?何でも好きなものを奢りますよ。お姉さん可愛いね。」

なんという年齢差のあるナンパだろう。最初は久々に地元の方とコミュニケーションを取れる良い機会だと思ったが、ジュースで私が釣れるとでも思ったか?そう思いながら丁重に断った。そして私はカウンターで名前を呼ばれ、向かう。手続きを終えて戻ると、老夫がココアとピーチネクターを持ってこちらに歩み寄ってきた。そして私にピーチネクターを渡してきた。出来ればココアが良かった。

「遠慮せずに、まあまあ受け取って」
「ああ、有難うございます」
「僕は鹿児島の出身でね、元々国家公務員だったのよ、だから全国を回っていて、そのあと此処で社長をやっているっていうわけ」
「それはご立派で」
「娘も偏差値72の学校に行っているんだよ、そんでこの前もこの土地で3人しか枠の無い新聞に名前が載ったんだよ」
「優秀な遺伝子ですね」

もうこの掛け合いを20回やった辺りで社会人生活のシガラミをを思い出してきたので、煙草を吸うと言うって離脱しようとしたところ、一本くれないかなどと言ってくる。申し訳ないがわたくしは紙ではなく電子タバコであるため共有できない旨を伝えると、白濁とした黒目がまたやんわりと澱み、また僕はここで待っていると言った。私はもう戻らないと決めた。

私は、ピーチネクターがあまり好きではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?