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師匠 クリエイティブディレクター木本梨絵さんと出会うまでの話。

今日、木本さんがロンドンへ旅立つ。木本さんの会社、HARKENにジョインしてからあっという間に3年が経っていた。
HARKENでの3年間を振り返った時、木本さんから得た1番の財産は失敗が許される環境を与えてもらえたことだ。HARKEN1年目の私は、社会人10年分ほどのミスを1年でしまくった。しかし、そのおかげで失敗への耐性がつき(それは良くない 笑)とりあえずやってみる精神が染み付いた。最初の2年間は木本さんに迷惑をかけまくってしまったが、おそらくどんなミスもある程度はテンパらずに対応できる能力と尋常じゃない速さで失敗を白状しマッハで謝るスキルも身についた。木本さん、本当に本当にご迷惑をたくさんおかけしました。そして、諦めずにずっと指導してくださり本当にありがとうございます。

去年の年末、HARKENクリスマス会の日

木本さんを知らない人へ
木本梨絵さんは私の師匠であり、HARKENの代表、クリエイティブディレクター、そして大学の学科の先輩です。

私は現在株式会社HARKENでCreative Plannerとして働いています。木本さんとの出会いと一緒に働くまでに色々とあり、この奇跡的出会いについてせっかくなのでシェアしようと思います。

木本さんを知ったのは、私が大学3年生の頃。私は武蔵野美術大学空間演出デザイン学科(愛称:空デ)でインテリアデザイナーの五十嵐久恵さんのゼミに入ってた。インテリアデザイナーに憧れ、この大学に入るためにアメリカの高校から日本の高校に3年の秋に転校し、受験。空デではインテリアコースのゼミが二つあり、私は五十嵐ゼミに入ったが、もう一つの片山ゼミにも入りたかったので、片山ゼミの課題プレゼンの授業だけ毎回勝手に侵入し、ゼミ生の講評を全て受講していた。そこで初めて木本さんと出会う。木本さんは片山ゼミの卒業生で、特別講師を務めているため、木本さんの講評を何度も聞いていた。

空デのインテリアコースのゼミは二つあり、私が在籍していた五十嵐ゼミでは、模型作りだけでなく、素材の探求など空間デザインを色々な角度から研究するゼミだった。片山ゼミは模型制作がマストで、デザインシンキング、コンセプトメイキングを徹底していた。実は1年生の頃から片山ゼミに入ろうと決めていて、片山教授の課外活動には全て参加し、片山さんの授業も全て受けていた。ゼミ選択の際はギリギリまで悩んだが自分はデザインすることよりもコンセプトメイキングやアイディア作りなどが得意だったため、あえて自分の苦手な分野を学べる五十嵐ゼミを選んだ。

五十嵐ゼミにいたときは狂ったようにコンクリートにハマり、とにかくずっとコンクリートをいじりまくったゼミ生活だった。

五十嵐ゼミでの時間を振り返ると、楽しい記憶しか残っていない。基本寝不足&教授からの厳しいチェックばかりだったが、本当に毎日が楽しかった。ただその頃から、自分は全くデザインが得意じゃないことに悩み、インテリアデザイナーの道を進むべきなのか葛藤していた。そんな時、片山ゼミの親友から木本さんのような仕事が私に向いているのではないかとアドバイスをくれた。その夜には木本さんにインスタでのDMで、なんでもする(掃除でもいいと伝えた)のでアシスタントしたいです!!と長文を送った。すぐに返信をくれて、そのときはまだアシスタントを入れる環境が整っていないということで、また機会があれば〜、で終わってしまった。
これが4年生の10月。

大学4年の10月というと、おそらくみんなとっくに就活も終わり、卒業の準備をしている頃なのではないか。私の代はコロナが広まり、就活のタイミングがズレ、そもそも美大生は(というか私のゼミは)約半数しかちゃんと就活をしておらず、私は”してない側”の人間だった。海外に出たい欲があり、卒業したらワーホリにでもいこうかな〜なんて呑気な考えだったため(&入りたい日本の会社も当時なかった)1社も面接も説明会も受けず、ただただ大学の課題に全力を注いでいた。(言い訳:大学大好き人間だった)

いかにも就活してなさそうな美大生の図
*秋の写真だが、年中夏服で過ごしていた。そして海での撮影の仕事をしていたためガン黒だった。

私の年は、卒業制作の発表もずれ、三月半ばに卒制の発表があったため(通常1月半ば)本当に卒業ギリギリまで課題をして過ごしていた。あまりに就活をしなかった私を心配した教授が、「これからどうするのだ!!!」と私の代わりに焦り、(ありがたい!)
私は「掲示板にあるデザイン事務所を片っ端から受けようと思います」
と伝えたら余計に教授の就活欲を掻き立たせてしまい、おすすめの事務所を教えてもらい、3月後半に面接に行き、無事合格。

そして入社初日、
私は絶対にこの事務所を辞めると決めた。
会社の雰囲気はともかく、この事務所のデザインに1ミリもときめかなかった。ここで痛恨のミスを思い出す。全く自分の入る事務所の下調べをしていなかった。(こんなちゃらんぽらんな就活生、私が出会っていたらブチギレる)
入った瞬間に確信した。5年後私は絶対にここにいない。重い仕事を振られる前に、今すぐに辞めるべきだと思った。母に相談し、「流石にある程度頑張ってから辞めるか考えなさい」と言われたが、3週間でこの事務所を辞めた。(このエピソードが瞬く間に大学の人に広まった。会社辞めパイオニアとして、会社を辞めたい友達や後輩から今だによく相談を受けている)

ここでやっと私の就活スイッチが入る。この時点で社会人1年目のゴールデンウィーク中。(スイッチ入るのが遅すぎて自分でも震える)
とりあえず日本を出なければ!!!と謎の脱獄心が芽生えてしまい、アメリカ就労ビザを発行してくれる会社を必死に探した。そこで見つけたのがアメリカの日本人塾の先生のお仕事。もともと子供と関わるのが好きだったのと、マイアミ補修校で小学1年生クラスの先生アシスタントをしていたので、教員免許もないのに応募したら合格してしまった。
(中学高校時代に保育園のアフタースクールケアのボランティアをしたり、ベビーシッターを続けていたり、語学ゲームのデザインプロジェクトに参加していた経験があったのもあり、奇跡的に受かってしまった)着々とビザ取得の準備をしていたゴールデンウィークの終わりに、DMが届いた。
木本さんからアシスタントのお誘いの連絡だった。

ここで究極の2択で迷った。
・大学で学んだクリエイティブを日本で挑戦するか
・学生時代からの目標である父のように海外で働くか
悩んだ結果、クリエイティブの世界に挑戦することに決めた。せっかく4年間学んだことをまだ活かしてもいないし、木本さんの下で色々経験してからでも海外には行けると思い、DMをもらった3時間後にはやりたい旨を伝え、たまたま作っていた職務経歴書をちょっと書き換え返信文と一緒に添付した。

実際に送った職務経歴書

そこからはとんとん拍子に話が進み、HARKENのメンバーの一員になり、今に至る。木本さんとの出会いは本当にタイミングが良かったなと思う。木本さんからのDMの文章に「理子さんは、その後もう就職済みでしょうか? タイミングを考えても、きっともうどこか素敵な会社さんでご活躍されているのかなと思いつつ、」と綴られていたが、心の中では「ちょうど辞めました!!!」と叫んだ。

私が一瞬入ったデザイン事務所での違和感を貫き速攻で辞め、木本さんと働くことを選んで本当に良かったなと思いつつ、こんなの絶対に事前に予想もできなかったので、直感を信じてみるもんだなと思った。

木本さんのロンドン章がスタートし、木本さんがいなくなることへの不安が大きいが、こんな社会人生命大ピンチだからこそ、予想も使いない事が起きるのでは?とこれからの自分にワクワクしている。とりあえず直近の目標はロンドンに速攻会いに行く事。

だいぶ長文になってしまいましたが、最後まで読んでくれた方がいましたら、本当にありがとうございます。こんな読みずらい文章を諦めず読んでくれたことに感謝です。

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