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無から有を生じさせた者が評価されない社会は衰退やむなし

今朝はひときわ冷え込んでいました。一瞬ガス代が気になりながらも床暖のスイッチを押してしまいます。使わないのはもったいない、心の中で「必要経費」を念仏のように唱えています。

さて、……。

ネット上では、依然として原作者の自死についての議論が続いている。本件については、以下の記事で書いた。

でも、そろそろ論点は出尽くしているのではないか。強いて言えば、原作の登場人物に対する脚本家のキャラ変欲求はどこから来るのか、くらいだろう。

脚本家サイドは今、逆風が吹く中でモノを言いにくいことは理解するものの、脚本家側の事情を解説したコメントは未だ見ていない。ぶっちゃけ、どう言っても原作へのリスペクトがないという批判には抗しきれないからではなかろうか。

原作者は、何もない無のところに一つの世界を構築して見る人の心を動かしたという現実がある。これは否定し難い。もし否定してしまうと「じゃあ、なんでそれを実写化する企画を立てたのか?」という更なる問いに答えられなくなる。

だから、まずは相応のリスペクトを持つところからスタートすべきだろう。なお、原作通りに脚本に落とすにしてもその労力は決して軽くないはず。だから卑下することなどさらさらなく、そういう番組作りこそが本来あるべきもの。

でも、日本ではそういう姿勢を一段低く見る傾向がある。それは何故かを考える必要があるだろう。

オリジナルをそのまま映像化するのは工夫がない、或いはやる気がないと受け止められるのが一因かもしれない。例えば料理でも、伝統料理をそのまま作れることは当然視される一方で、何かを足さないと工夫が足りないと言われてしまう。

これは、オリジナルを創造できる人が少なく、既存のものを常に改良・改善するのが日本の習わしであるところから生まれた視点だと考えると腑に落ちる。

一時世界経済を席巻した日本であるが、GAFAの中に日本企業は一つもない。このことも以前書いた。

新たなビジネスモデルを構築し、プラットフォームとして全世界に押し広げることができた者が利益を総取りするのが今の世界。ここでは、オリジナルを構築できる才能が求められる。逆に日本の得意とする改良・改善での成長は、その余地が小さくなっている。

今の日本を見渡すと、世界で一目置かれている企業はどれくらいあるだろうか。トヨタは疑いなくその中に入ると考えるが、そのトヨタも今は系列会社の不祥事によっていくつかの車種の生産が危うくなっている。

こんなことを言うと怒られるかも知れないが、就職時にリーマンショックとバッティングして非正規雇用で食いつなぐしかなかった、という声がある。それはその通りだったと思うし気の毒に感じる。でも、多くの若者がそういう境遇に陥りながら、起業できなかったのはなぜだろうか。

まず、有望な製品やサービスを考えついて融資を求めても、それを目利きする能力が日本の金融には少ない。基本、彼らは融資する先も安全パイしか相手にしない。

そして、せっかくアイデアがあったとしても、それを社会で育てようという機運がない。さらに、同調圧力や忖度が求められて、とがったものも小さく丸く削られて人の心に刺さらなくなってしまう。

もしアメリカのようなフロンティア精神に満ちた雰囲気であったなら、また違った展開があったかも知れない。そう思うと残念である。

このような日本を覆う雰囲気の下では、オリジナルが生まれないことを前提に、ただ既存のものを改良・改善する能力が求められるようになってしまった。しかも、それが海外に勝つ競争力の肝となった過去の経験から、無から有を生じさせた創造者に対するリスペクトが小さくなったというのが私なりの考え。

これは日本の産業全体に関わる話で、何もテレビ業界だけの問題ではないことに気付いた。でも、改良・改善至上主義はもう過去のもので今風ではない。それを改めないと日本はますますジリ貧になっていく。そのことを大いに危惧している。

お読み頂き、ありがとうございました。

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