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本物志向は否定しないのだけど……

今日は天気が不安定ですね。降るなら降る、上がるなら上がるではっきりしてほしいです。言ってもどうにかなることではありませんが……。

さて、……

「本物の良さは、まがい物では味わえない」的な発言は、昔からよく聞く。

この手の話に関わり、私は『美味しんぼ』について何回か取り上げてきた。それ以外にも『キャッツ♥アイ』で本物の絵画を見て育った三女の来生 愛が、模造品を見抜く場面が描かれていたりする(お前の知識の源は、漫画ばかりか? という批判はご容赦願いたいw)。

確かに本物とされるものに対して、模造したものが及ばないのはやむを得ない。しかしながら、それは比較するからである。絶対値として見た時に、なお模造品に価値はないだろうか。

私は、そんなことはないと思っている。黙って「粗餐ですが」と言って出された食べ物は、大抵それなりの満足を与えてくれるし、新聞の美術コーナーに掲載される絵は印刷されたものではあるが、見るに堪えないものでもない。

逆に、一時ハイレゾがもてはやされたがそれほどブームが広がらなかった。まして標準に取って代わることもなかった。人間が聞き取れない音域まで取り込みより本物に近いはずなのに、それほどのニーズがなかったということになる。

これらのことを踏まえると、本物を心の底から欲し、本物以外を無価値だと見なす人は、実はそれほどいないのではないかと考える。

そもそも、本物は物理的に数が少ない場合が多い。つまり、みんながみんな本物に触れることができるとは限らないのである。しかも、本物を得ようとすると、結構なお金が掛かってしまう。

お金も有限であり、食にも、美術品にも、音楽にも全て本物を求められるわけではない。どの分野に優先的にお金を回すのかは個人それぞれの価値感に基づくことになる。

ただ、本物の入手を断念した部分について、いたずらに残念がったり、不満を感じたりするのはどうか。そういう思考パターンについて、少なくとも私は、そこまでこだわる必要はないと考えてしまう。

本物の価値は価値として認めつつも「自分はこれくらいでちょうど良い」と折り合いを付けられるポイントを考え、それをあまり高めにしない生き方を選ぶこと。それが、実質的なQOLを高めるものだと思っている。

本物を知ることにエネルギーと費用を掛ける生き方は、最後は修羅の道に通じるように思っており、私は取り得ない。

お読み頂き、ありがとうございました。

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