加齢で得る解放感には自分で歯止めをかける必要性がある
天気予報通り、今日は一日雨、しかも、結構な量が降った時間帯もありました。庭の大葉に水撒きせずに済むありがたさと、折り畳み傘を開く覚悟を強いられる面倒臭さが葛藤を生む状況。大抵の人にはどうでもよいことで申し訳ありません。
さて、……。
歳を取ること。我が子の成長に目を細める親も、自身の加齢に対しては一般によいイメージを持たない。長寿記録に迫るところまで振り切ってしまえば、多少は前向きに受け止められるかも知れない。でも、その頃には自分の年齢など意識しない気もする。
大人は歳を取るに従って、どうしても身体の機能が衰える。関節や腰が痛んだりする。視力が下がり、耳も段々遠くなる。髪は白くなるか失われる一方で、うれしくないけど脂肪だけが寄り添ってくれる。
その脂肪も、なぜかシワを埋めるようには動いてくれない。その割になくてもよいところで最後までお供してくれる。
このように、加齢に伴い全身体的に劣化していくのは不可避。だからこのことについては是非に及ばずである。価値判断で評価すべきではなく、そうなるものとして存在することを受け止めるべきもの。
歳を取っている人間も、そのことは十分に理解している。そして大抵は「ああいやだなあ」と後ろ向きに捉えることが圧倒的に多い。間違っても四十肩になって大喜びする人はいない。
それでも、定年が見えてきて気付いた加齢の利点というものがあることに気付いた。身体機能は既述の通りだけど、世間体から解放されるのは利点である。厳密には、世間体というよりも人の思惑を気にする必要性が下がるというのが適切かも知れない。
なお、世間体から解放と言っても、朝、門柱のポストまで新聞を取りに行くのにパンツ一丁で行ったりはしないし、これからもそれはしないつもり。
そういう社会のマナーに挑戦するレベルではないのだけど、例えば会社で上司にどのように伝えたらよいのか、PTAの会合で役職就任をどうしのぐか、会議や打ち合わせで気の利いたことを言わないと恥ずかしい、等など生きている中で遭遇するさまざまなシーンにおいて、常に波風を立てないようにしつつもエエ格好つけることに、少し疲れたというのが正直なところ。
これは、私だけではなかろう。好き放題言いたいことだけを言って体面を気にせず生活している人はごく少数だろうから。それらの「こうあらねばならない」といった気持ちが「した方がよい」レベルに下がりつつある。
ただ、これが「どうでもいい」にまで下げるのはマズい。その点で、下げるのも進み過ぎないように気を付けなければならない自覚はある。というのは、単なるわがままになって周囲から嫌われる年寄りになる覚悟まではまだないからだ。
これはあくまでも私の個人的な考えなのだけど、あなたはどうお考えになるだろうか。
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