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自分の感受性くらい、

久々にあまり構成とか考えずに、自分の思いをつらつらと述べていこうと思う。

ことは感性についてだ。

ツイッター民にもきっと一度はTL上で流れてきて目にしたことはあるだろう。
茨木のり子氏による「自分の感受性くらい」という詩だ。


ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


感受性。
それは心に潤いを、人生にみずみずしさを与えるもの。彩りを与えてくれるもの。

ずっと思っていたことがいくつかあった。
感受性はいつも「痛み」とセットで、「孤独」の周辺をいつも漂っている、と。

感受性は情緒が 寂しい夜を超えた先にあるもの。

僕らは歳をとるにつれ、痛みを恐れるようになり、孤独を感じる夜を紛らわせようとする。

感受性は歳をとるごとに乏しく 枯れやすくなってしまう。

だから、人一倍心の襞は露出させ、痛みには敏感であろうとした。
誰かが誰かを想う、その夜を想像しては時には涙だって出せてしまうように心がけていた。

他人の痛みがわかること ある点に対するマージナルの想像力が豊かであること

これこそ、月を見たときに感じる寂寥感や孤独だと。 そしてそれこそが感受性の源泉だと。

でも、茨木のり子がいう感受性は僕の思う感受性と一致するだろうか。

ある時、感性が 情緒が 寂しい夜を越えた先にあるものだと思うことをやめた。

守りたいものは、 寂しさを噛みしめる弱い自分ではなく己の感性そのものだ。

ある一点に対する強烈な色彩感覚 これこそが、創造性であり感受性の源泉なのだ。



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