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【アルビノの魚】泡沫

 一年を通じて一番彩度が低く、人を微睡ませる2月。外気のツンと鼻を打つような寒さとそのぼんやりとした気候が、冷やしすぎて酸が立ちすぎた白ワインの、その芳醇な香りが感じにくいように人々のあらゆる感覚器官も鈍くさせていた。指先の冷たさは限界になり、僕の身体の一部が自分で統御できないまるで別物のように感じられて今にも独り歩きしそうと思うほどだ。

 裸にさせられた木々たちもその内側に膨大な生命のエネルギーを蓄えてはいるが、まだ街を彩るには時期尚早で、土の匂いや陽の暖かさも北風の前では微塵も感じられない。寒さに飽きて春の訪れを待ちわびる人たちもまだその厳冬の前に口を噤んでいる。12月の色めきも、1月の祝祭感も過ぎ、多忙を極めていた心に余裕と、緊張が解れ今までに等閑にしていた感情がどっと押し寄せてくる。

 僕はそんな2月を、「泡沫の月」と呼んでいた。

 思考が垂れ下がり意識は自然と内側へと向いていく。寒さを凌ぐために顔元までしっかり覆われたマフラーと暖を取る為の外套とがまるで外界との関わりを拒み、母性の都へと還る象徴のようにも思えた。眼前に広がる光景は夢とも現ともわからず、その柔らかい日差しの前で目を閉じれば忽ち深淵から差し込む一筋の光を思い出すに違いない。僕たちが生まれるずっと昔から、君と僕の間に横たわっているあの深淵に、愛や希望といった類の暖かい光の存在を見出していた無邪気な自分を懐かしく思いながら、それが泡沫の夢であり、やり場のない責任を一手に引き受けなければいけない現実を突きつけられた時、僕は母の胎内にいたころのように身体を縮こませ、春の到来をただじっと待つのだった。現実味に乏しい2月は人を空想的にさせ、茫漠とした海を漂いながらまだ見ぬ春の此岸へと辿り着くことを願っているのである。

 昨年12月に一年間付き合っていた彼女と別れ、すでに二ヶ月が経とうとしている。一年という自分にしては長い付き合いもそうだが、なにより自分の周辺に女性がいない状況を2ヶ月以上も作り出していたことをまだ正しく認識できずにいた。
 今までにお付き合いをした女性の中ではなかなかにパンチが効いていて彼女は自身のことを「永遠の17歳」と呼んでいた。実際は21歳なのだが。
 最初は常に無邪気な彼女と一緒にいることで、何か荒んでささくれた心(といっても、当時の自分もまだ22歳だったのだが、若い頃ほど自分が大人になっていく感覚に敏感であるものだ。)に潤いを与えてくれると疑わなかったが、むしろ自分の心は荒れていく一方だった。たった一歳の差ではあるものの、「大人」と見られていた自分に対する彼女の過度な期待。そしてその期待を満たす器量を持ち合わせていない自分への罵倒。無論、彼女への怒りは自分の不足の投影だと何度も思ったが、どうやら出会う時期を間違えていたらしい。僕が17歳であったら、きっと僕は彼女と同じように感覚を共有できただろうか。
 そもそもなぜ彼女が永遠の17歳などというタイトルを自分に課していたかといえば17歳から今にかけての記憶がないことに起因していた。「無い」と言っても記憶喪失ではないし、その間交通事故や病気で目を覚まさなかったわけでもない。
彼女は17歳から21歳まで、親の転勤の都合でシアトルで暮らしていた。彼女の語るシアトルでの生活に不満があるようには一度も感じなかったし、今でもフェイスブックを見れば「17歳」の頃の彼女に出会える。
 しかし、彼女がよく口にしていたことには彼女には日本の青春の記憶がごっそり抜け落ちている、ということだった。

確かに日本と海外での思春期の過ごし方は違うように思う。どう違う、とは僕には語れないけれど、彼女は僕がごく当たり前に過ごしてきた高校生活の話をするとき、まるで御伽の国の話を聞く子どものような憧憬の眼差しを僕に向けるのだった。

「僕と一緒に、青春を歩きませんか。」

 結局、僕は彼女に青春を経験させてあげることはできなかった。
青春とはなんでもできると思い込むことができる時期だと僕は思っているけれど、その時期を通過してしまった僕が、青春を知る前の自分に戻ることなどできるはずがないのだ。そこには皮肉がある。青春を通ればあの世界の全てを薙ぎ倒すような無敵感に憧れを見出すが、それは青春を経験した後にやってくる脱力感なしに語ることはできない。一方、青春を経験していない彼女にとって、青春とは理想郷-そこがユートピアであるか、ディストピアであるか、これも経験した私は彼女の思い描く「青春」との間で衝突した。-でありまだ見ぬ死後の世界のようなものだった。彼女は無知であり、青い春が枯れて影を落とす瞬間を知る由も無いのだ。
 つまり、僕と彼女が見ていた「青春」の群像には齟齬があってベクトルは同じ向きを指しているのに決して交わることはない、平行線を辿っていた。

ぼうっと彼女のあれそれを考えていると気づけば列車は終点にたどり着いていた。車窓越しに差し込む陽の光が身体に積もった雪を溶かしていく。春は、ひょっとしたらもうすぐそこにあるのかもしれない。










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