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6/24: 味のない水の味。音のしない音の音。

しっとりと舌に巻き付く味のない水
昨日から日常にいる

                 中澤系

え。はじめてこの歌をみたとき、それ以上の言葉は出なかった。

水。ここに置かれている言葉は、じぶんもよく知っている、あの水のはずだ。舌に巻きつくというのだから、水道水かミネラルウォータ、とにかく飲料水だろう。

ん。ほんとにこれは、じぶんも知っているあの〈水〉だろうか。不安になる。〈水〉という言葉の前後にあるすべての語が、〈水〉を不安にさせている。

この〈水〉をコップに注いで飲んでいる人を、とりあえずM(水のmで笑)としておこう。

いま、Mが口にしたものは〈味のない水〉であったらしい。Mは〈水〉を味わってみた。すると、味がなかった。バカみたい。

のこされた情報は、Mが「昨日から日常にいる」ということだけだが、I see、これがすべてを修飾してくれている。Mは、昨日から日常にいる=おとといまでは全くそうじゃなかったはずなのに。

Mは、何処か此処ではないところから、帰ってきたばかりなのだ。Mはまだ、こことは違った時空の感覚器官(舌)を幾許かのこしている。いままで〈地〉であった水の味が〈味のない味〉として〈図〉になり「しっとりと舌に巻きつく」。祭りのあと、って感じがして、とても好きだ。

〈味のない水〉を謳った中澤系の短歌の勝手な、ひとつの解釈をしてみた。

味なき水ならぬ、音なき音を謳った、のではなく歌ったサイモン&ガーファンクルの『sound of silence』を聴いて、今日はおやすみなさい。

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