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変身・合体して戦うヒーローが登場しないコミックこそ、断捨離できない

貸本文化から知った大人の世界

私が幼かった1960年代後半には、実家の近くに何軒かまだ「貸し本屋」が残っていました。

その頃すでに「少年キング」などの週刊漫画雑誌が発行されていましたが、子供のお小遣いではたびたび買えず、1回読むだけなら貸本のほうが割安でした。

薄暗い裸電球に照らされた個人経営の狭い店内、子供向けの漫画本だけ置かれている棚とは別に、大人向けの本や雑誌が並べてあるコーナーもあり、知らずに入り込んで、「団地妻 午後の秘め事」など、見慣れぬ変なタイトルの本を手に取ろうとした時に、店主のおばさんから、「そこは子供の読む本
じゃないよ」と強く言われて、何か恥ずかしい思いをしたこともありました。そのコーナーには子供がまだ触れてはいけない大人の秘密の世界があったのでした。

手塚治虫もいいが、やっぱり、楳図かずお

貸本文化の終焉と共に消えていった作家たちから、さいとうたかを、などの巨匠たちの若き日の作品も読みましたが、やはり、子供心に一番強烈な印象を残したのは、楳図かずおでした。怨念や嫉妬、エゴイズムや邪悪な欲望が醜悪な容貌や異形の姿に具現化されて展開する楳図ワールドは、決して子供向けではなく、怪奇と戦慄だけが売りでない、哀しく愚かな人間の姿を描いて、年代を超えて訴えてくる普遍性もあったのです。

小学生の時に読んだ「半魚人」は、
その後もずっと心に残り続けた作品


漫画を読みながら、焼肉定食を食べる

1970年代以降の思春期には、「世界文学全集」に目覚めたため、漫画は全く読まなくなっていました。ところが80年代、青年期である大学生活が始まると、昼はキャンパスで学食、夜は学生向けの「定食屋」に通うようになり、そこには、たくさんのコミックや漫画雑誌が置いてあり、また漫画を読み始めました。中でも、“ゴルゴ13”を掲載していた「ビックコミック」などには面白い連載が多く、それを置いている店を選んで通っていました。

こうして学生時代に、定食屋を通じて出会って読んだ漫画作品には、その後ずっとあとになって再会することになるのです。

余談1:焼肉定食
ずっとあとからわかったことですが、定食メニューの「焼肉定食」をよく好んで食べていましたが、あれはほとんど「豚肉」だったらしく、店によっては値段の高い「牛焼肉食」と区別して表記していたようです。その頃の私は、何の肉か考えることもなく食べていたのです・・。

古本チェーン店で、大人買い

BOOK OFFに代表される古本販売買取チェーン店が全国に店舗を展開し始めた90年代、勤めている会社の給料から出費されるものの内、食費の次に多かったのは、まず本の購入代、そして音楽CDや映画ソフト(VHS、後にDVD)の購入あるいはレンタル代でした。
とりわけ、学生時代に雑誌で読んでいたお気に入りの漫画作品が、コミック全集として出ていることを知ると、まめに複数店舗で探しては全巻をそろえました。たとえば、定価500円のコミックが書店・出版元に在庫なしでも、古本なら100~250円ほどで手に入るので、まとめて大人買いもしました。

2001年以降、漫画本の断捨離決行!

90年代に買い漁った漫画コミックも、二度と読まないであろう文庫本・単行本あるいはCD・DVDとともに、買い取り査定で本は10円か100円、ディスク類は100円~500円で買い取られてゆき、2023年現在は、総量の5分の一以下にまで減りました。
そういう中、どうしても捨て切れずにいまだに本棚に残り続けて色褪せたカビ臭いコミック全集たちを、久しぶりに何冊か拾い読みしており、今回は、そんな愛蔵本たちを紹介いたします。


発行初年度の古い順に;


「優しい鷲JJ」
望月三起也 1981年発行 全7巻
 

名作「ワイルド7」が、ヒーロー飛葉を中心に7名の個性的なメンバーによるティームプレイの要素がありましたが、この「優しい鷲JJ」は、何故かまだ高校生の男子と助っ人役の政府系工作員がバディを組んで世界の悪党たちの陰謀を力づくで叩き潰してゆく、という設定です。アクション設定や武器のディティール描写はより大胆かつ緻密になっており、作家・望月三起也の画面構成力は約束事無視で変幻自在な暴力美の極みにまで達しています。


「裂けた旅券」
御厨さと美 1981年発行 全7巻

主人公の羅生豪介は、素性の不明確な日本人だが、フランスを中心にヨーロッパ各国の裏社会にもコネがある人物で、旅行客の現地添乗員やスキー・インストラクターから、裏組織の情報屋・運び屋、某国政府がらみの産業スパイ、探偵まで、さまざまな仕事で生計を立てている、という設定です。

ある事件をきっかけに、マレッタという、きわめて個性的で生意気かつチャーミングで純真な13歳の女の子と同居することになり、まだソビエトや東西ドイツ時代の80年代ヨーロッパ政治情勢を背景に、温かな人情小話や非情な掟のリアリズムを描いたストーリーは抜群の面白さです。

御厨さと美氏の緻密な画面構成と正確な描写力、創作したキャラクター造型の素晴らしさ、特にヒロイン・マレッタは、たとえれば、スカーレット・ヨハンソン広末涼子を合体させたような魅力と言えば少しは想像できるでしょうか。

超人間的な殺し屋のゴルゴ13とは対照的に、どこか抜けていて憎めない人間臭さがプンプンする羅生豪介の好感度は高いです。

余談2:ニッポンの戦う少女たち

ジブリのヒロインたちや、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」など、ニッポンアニメや映画、漫画等で繰り返し登場する戦う少女たちは、まだ未成年でオンナとして成熟していない「純心少年ヒロイン」として、オトコ以上に頼れる強い存在を強調して描かれていると思います。

一方の欧米映画では、「エイリアン」・「バイオハザード」の女性戦士がそうであるように、大人の自立した女性として描くのが一般的のようです。
この違いは、オトコとして成熟しきれない一部のマザコンニッポン男子たちの「お母さん、これ、お願い」欲求に、やさしく甘い対応をしてきたニッポン女性たちにも一因あるのでは、と私は密かには思っているのですが・・。


「パイナップルARMY」
浦沢直樹作画 工藤かずや作 1988年発行 全8巻

主人公のジェド豪士はアメリカ海兵隊除隊後、傭兵として世界各地の戦場を渡り歩き、現在は、民間の軍事顧問組織に在籍、戦闘インストラクターとして、多様な事情を持つ人々からの依頼を受けて実践的なレクチャーを行っている、という設定です。
東西冷戦時代の各国の社会問題や紛争を背景として、ミリタリー系アクションの要素も加えたヒューマンなドラマ仕立てになっており、実にユニークでスリリングな面白さです。


「MASTER キートン」
浦沢直樹作画  長崎尚志・勝鹿北星作 1992年発行 全11巻

日本人の父親と英国人の母親を持つ主人公キートンは、オックスフォード大学で考古学を専攻、イギリス特殊部隊SASで戦闘技能とサバイバル術を習得して実戦経験を積み、除隊後の現在は、大手保険会社ロイズで保険調査員をしている、という設定です。
イギリス本土を主な舞台として、多種多様な人間たちの投げかける問題に巻き込まれては、知恵と勇気と思いやり、時には戦闘能力も発揮して難局を切り抜け、事件を解決してゆく話です。温かな人間愛とユーモア精神が基本にあるので、自然とキートンの人柄に魅かれてゆき、読後の充実感があります。また、そういうキートンのキャラや登場人物の造型、背景描写など、浦沢直樹の独自の筆致で見事に描き切っています。


「家栽の人」
魚戸おさむ作画 毛利甚八作 1994年発行 全12巻
 

地方の家庭裁判所を舞台に、暇さえあれば周辺の山や野に出かけて植物を観察する桑田判事。植物を見守りながら「栽培する」ように、人を厳しく
「裁く」のではなく、温かい眼差しで良い方向へ誘うような審判を下す人物。作品のポイントである自然の草花や樹木、山並み等の描写が色彩映像を見ているかのように緻密で美しく輝いており、いつも温厚でやさしい笑顔の中に時おり真摯な眼光がきらめく、といった判事のキャラ描写も素晴らしいです。

余談3:
テレビドラマでは、この判事役を、片岡鶴太郎、時任三郎、船越英一郎などが演じてきており、私は、片岡版しか見ていません。外見の印象だけなら、時任三郎が漫画のイメージに最も近い感じですが、片岡版はとても丁寧な作りで鶴太郎の演技もよかったです。

  

まとめ ~ 超人的なヒーロー・パワーなど要らない

こうして、自分が若いころから好んで読んできた漫画は、すべて、現代のリアルな日常世界を舞台背景に設定した、生傷の絶えない等身大の主人公が
知恵と技術で困難を乗り切るヒューマンドラマばかりです。

変身・合体の戦士たちが活躍する日本のお家芸である超人ヒーロー物や、架空の未来社会で空想上の怪物や超人たちが登場して人類の存亡を賭けて大規模な破壊と戦闘を繰り広げる設定のドラマや映画にはあまり興味が持てなかったのです。無駄なほど破壊的な超人パワーを使って敵を退治するヒーローなど登場してもらわなくてけっこうなのです。

余談4:なぜ日本語では、宇宙「人」なの?
昔から、なぜか、宇宙人という日本語に違和感を感じてきました。なぜ、「人」が付くのか、ということです。その点、英語では、alien( 外部のようなニュアンス ) extra terrestrial( 地球外生命体のようなニュアンス )など、いくつか言い方があり、日本語よりは客観性を感じます。ニッポンおよび日本語が、自然界のことでも「擬人化」して表現しがちな習性があることと関わりがあるのかもしれません。

私が好んで自ら描いてきた「」も、架空の・空想上のイメージ風景を描いていると思われるかもしれませんが、私の言い分としては、それは、「目には見えないが存在している世界」を想像力で描く試みをしているだけで、その世界には、宇宙を支配しようとする邪悪な生命体は棲息していませんし、あまりに破壊的な超人ヒーローも登場する必要はないのです。