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痛みの下のやわらかさから、希望の矢を放て

わたしは、わたしの友達たちをとても誇らしく思っている。彼女彼らのことを思うときわたしはいつも、やさしいなあ、がお腹の底から湧き上がってくる。彼らはほんとうにやさしい。わたしが彼らのことをやさしいとおもう時、何を受け取ってそう思ってるんだろう。やさしいは一体なんなんだろう、どこからくるんだろう?と考えてた。すると、共通点が見えてきた。それはちょっと前に書いた、「深いところの担当の人へ」みたいなタイトルの文章の人たちといっしょのところにあった。

彼らがやさしいのは、自分の奥深くにあるやわらかいところに自分の眼差しが触れてるからだ。


人間はやわらかい。


わたし達は、信じられないくらいやわらかい。目の前の人が自身のそのやわらかさに触れた時、それを見ている私たちもまた、自分のやわらかさに触れる。その時に、やさしいな、と思う。

やわらかすぎて痛い目に遭ってきた私たちは、なかなかそこに触れようとしない。そのやわらかいところはあまりに敏感で繊細で傷つきやすくて、それとともに生きるのは時に「たいへん」だ。時にっていうか、まあ、たいへんだ。みんなそれを自分でなんとかするように!痛い?バカヤロウそれは甘い!強くなれ!という常識の社会の中では、とてもたいへんだ。

やわらかいところの周りには、鎧みたいに、たくさんの痛みがある。どれほど痛いか、その痛みを抱えてきた人にしかわからない。だからその痛みに共感されると人は、「本当のわたしを見てくれた」ような深い感動を得る。やっとわたしをわかってくれる人がいた、と感じる。どれほど痛かったか、わたしにはたくさんの痛みがある。YES。そして同時に、その痛みは、わたしではない。

痛みを感じないようにしてるなら痛みを認知するのが第一歩。だけど痛みを認知した後もなお痛みと自分を同一化し続けると、どれだけ痛かったかマウンティングの大会があちこちで始まる。わたしにはこの痛みがあるのだから大切にするように、と人に言うようになる。そこまでいかなくても、痛みがあることが一つのバッジのようになることに違和感がある。

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痛みの物語。どれだけの願いがあり、それが叶わなくてどれほど痛かったかの物語は、痛みを持つ人の心に触れる。痛みを持たない人はいないから、みんなの痛みと震え合う。だけど、わたしは最近思う。共鳴させたいのは痛みではない。それだけでは、希望の矢は放たれない。

痛みをアイデンティティにしてしまうと、痛みを癒すことは自分が消えることと同じになる。癒しに抵抗が起きる。その方がきもちいいから。痛みに共感されることは、自分の存在を丸ごと受け入れてもらったような強烈な快感があって、クセになる。そうなると後はあらゆる依存症といっしょ。痛みがあることで得られる快感をあらゆるやり方で欲し続ける。多分、痛みを大事にしすぎると、自分しか見えなくなるのだと思う。痛みを大事にしすぎると、自分の痛みで自分や人を振り回していることに気づけなくなる。痛みは便利だ。ピンチになったら最後に振りかざして、この痛みは誰にもわからない、と言えば、痛みをわかる全ての人がその瞬間、黙ってくれる。

痛みに共感が必要なこともわかる。私もそう。でもそれがクセになってないか、そこで繋がろうとしてないかどうかは、大人として責任持って見つめたい。

やわらかい自分を振り切ったり無視したりして痛みと自分を同一化した時、表現は武器になり、罠になる。

ねえわたしに気づいてよ
わたしの方があなたより優れてる!
わたしを見て
いっしょにいるのに相応しいわたしでしょ?
こんなわたしでもいいって言って!

そういう表現たちには自己顕示欲、支配欲、承認欲求、いろんな名前があると思うけど、単に痛みから放たれた矢。もしそれを恥ずかしいと思うなら、本当はそういうことがしたいんじゃないんだよっていう自分がいるだけ。

そうではなくてわたしのやわらかいところに触れながら行動を起こすとき、その行動はとってもその人らしいユニークな、クリエイティブな「表現」になる。地球に、世界に、人々に放たれる希望の矢になる。超かっこいい。

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生きてると色々ある。自分のやわらかさを生きていこう、希望の矢を放って生きていきたいと思っても、どうしようもない時もある。そもそもその筋力がないんだから、筋トレからだ。痛いのは、当たり前。痛みが疼くのも、当たり前。できないのも、どんまい。でも、その下に行くのを、その下から希望の矢を放つことを、諦めずにいこう。色々ある私たちのまま、泣きながら笑いながら、時に怒りながら唸りながら、お互い色々あるよねといいながら、輪になって見守りあい、分かち合い、そしてまたそれぞれの場所でそれぞれの毎日を希望の矢として生きる、生きようとする。そういう人間達が地球のそこここに増えたら、とっても平和になるんじゃないか。

と、書いてたら、誇らしくなったのでEarth Partnerの活動のことも書く。箕面のファーストピースサークル、四日市のファーストピースサークル、そして始まったばかりの「ひらがなを話す会」の仲間達と私たちは、そういう輪をいっしょに歩いてる。人々のこの輪を、地球もきっとよろこぶに違いない。つよくてやさしい人間の道を歩きたい人々の輪は、わたしが7世代先まで残したいと心から思える希望の光景。こういうふうにいっしょに歩ける人々がいるのは、そうやってはたらけるのは、ほんとうにほんとうにしあわせなことです。

人々が繋いできた大地の知恵、自然の教えの流れに、共にじぶんを横たえる。目の前の生命すべてに見守られて、見守り合って、ひとりではこえられないものをみんなでいっしょに超える。むすんで、ひらく。わたし達はそれをセレモニーと呼ぶ。人が環になる時、ひとりでは届かないところまでいっしょにいける。

8月にもセレモニーをひらきます。2泊3日、沖縄にて。詳細をご希望の方は、EarthPartnerのお便りフォームにご登録いただくか、わたしにメッセージください。

一通目のお便りを送りました。ひらがなを話す会【はじまり】は、満席です。参加希望の連絡をくれたけど入れなかった方、次回優先してご案内します。

Earth Partner
平田里菜


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