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仮初め

ここ最近「自分らしさ」が色褪せていく恐怖に苛まれていたが、確立されていたと思っていた「自分らしさ」は仮初めなのではないかと、ふと考えるようになった。

(ここでいう自分らしさとは性格ではなく、どの分野を好き好み、どういう価値判断によって選択をするか、という意味で書く。)

振り返ると、その場しのぎの自己紹介や夢を幾度となく語ってきた。

小中と英語が得意であったため、高校時代はとりあえず海外を目指した。

大学受験の際は受ける学部学科によって、時に教師志望であり、時に外交官志望であった。

大学時代は、高校時代を香港で過ごしたが故にとりあえず中国に関連する団体やゼミに所属した。

そして今年終えた就職活動はその集大成だ。

過去の活動分野が広すぎた故にまたここでもその場しのぎの夢を語り、とりあえず幅広い業界に触れることのできる仕事に就くことになった。

仮初めの選択を重ねた結果、特に強い思い入れもないキャリアのスタート地点に辿り着いた。

しかし、間に合わせの思想や言動、そして行動を次々と実現させたのは紛れもない自分であり、結果その積み重ねでしか今の自分はない。

その点においては最初に前提とした「仮初めの自分らしさ」という事実はないのかもしれない。

その場しのぎと言いつつ、それがその瞬間において私が考えつく最善の選択であり、後日理想の自分像とのギャップが生まれたことに対する言い訳として、これはあくまで一時的な「仮初めの自分らしさ」と言い聞かせてきたのだ。

いつか本気になろう、いつか好きなことをしよう、いつか好きな人と行こう、いつか。。。

そんなことを言っていたら人生何回あっても足りない。

歴史上の偉人も他の人も散々同じようなメッセージを発信して下さっているのに、自分ごとにならないと痛感しないものだ。

この夏訪れた北欧(フィンランドとノルウェー)に広がる社会や景色は、「仮初めと思いたい私らしさに包まれたジレンマを持つ私」を嘲笑っているかのようだった(その話はまた後日)。よってその写真を思い出として添付する。


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