見出し画像

カーマン・ラインを越えて行け④

 かれこれ20分くらい、僕は全速力で逃げるピカイチを追いかけていた。サッカー部のピカイチときたら足がものすごく速いから、10メートルの間隔が埋まることはない。けれども、これ以上差を広げればいよいよ見失ってしまうので、運動不足の体に鞭を打ちながら学校中を走り回った。幸い、春休み中で先生もあまりいなかったので、変に妨害されることもなかったが、運動不足がたたって呼吸がうまくできず、走りながらも酸素を欲して何度も上を見上げた。

(息を切らして追いかけて、見失わないように必死に背中を追い続け、それでも届かないのに、これ以上走り続ける必要なんてあるのだろうか。)

一瞬、後ろからささやかれた気がするが、無視して大きく一歩を踏み出し、無我夢中で駆け回った。けれども、南校舎4階まで駆け上がったところで、ピカイチは突然足を止めた。僕は突然のことに驚き、急ブレーキをかけ止まろうと踏ん張った。廊下と靴が摩擦で擦れて、本当にキュキュッと音がするなんて、マンガみたいだ。ピカイチはこちらを向いて静かに言った。

「そんなに気になるのか。」
僕は彼が、全く息切れをしていないことに驚いたが、息を切らしながらも声を出そうとした。
「はぁ、はぁ、…かっ、……っは、。ふ、はぁ、っは、……。」
言いたかった言葉は、「ああ、そうさ。よくわかんないけど、お前がなにか知っている気がして、しょうがないんだ」だった。けれども、全力疾走したことにより息が上がっていて、ただ切れきれの音が空気とともに抜けていくだけになった。少しの間、沈黙が流れたが、僕の言いたかったことは、ピカイチに通じたからだろうか。彼は静かに目を伏せると、僕に背を向けて、ゆっくりと歩き出した。これは、彼なりのOKサインなんだろうかと思い、僕もゆっくりと歩く彼の後を、黙ってついていった。ピカイチは、「ついてくるんじゃねえ」なんて暴言は全く吐かず、ただ静かに歩いていた。
歩いていくうちに、いつも教室移動で歩いていた廊下が、なんだかなじみのないような、どこか異国の空間のように感じられた。おそらく向かうのは、先程ピカイチと鉢合わせした中央校舎にある教室であろう。無言で歩くピカイチの背中は、相変わらず無言だったけれども、追いかけていた時とは打って変わり、背中のシャツのしわも、なんだか柔らかく感じられた。無言の僕らの間には、メトロノームのように規則正しく鳴る足音だけが会話で、一定の距離感覚を保ちながらも、同じ旋律を奏でていた。そして、たどり着いたのは、やっぱり、美術室の二つ隣の小教室であった。

「ここ、お前の後追って入ったけど、何もなかったんだけど。」
「そりゃ、そうだ。だって俺、この教室から移動しているからな。」
「は?」

 頭を久しぶりに働かせたからだろうか、全くもって想像ができず、10秒くらいその場で固まってしまった。とぎれかけのシナプスを辿って頭をフル回転させ、ピカイチの言葉をどうにか理解しようとしたが、まったくもって無理だった。教室から移動するために廊下があるというのに、廊下に出ることなく、いかにして教室から別の場所に移動するのだろうか。僕が硬直している間に、ピカイチは手際よく通学鞄からロープを取り出し、窓を開けて、ロープを机の脚と、落下防止の手すりに結びつけた。もしかして、ロープを使って窓から他の教室へと移動したのだろうか。確かにあの日ピカイチを見失った時、教室に誰もいないのを確認しはしたし、窓は閉まっていたと記憶していたのだが。

「え、何やってんの」
「こうするんだよ」

効果音で例えるならば、「ヒュッ」だろうか。ピカイチはロープを伝ってするすると下に降りて行ってしまった。取り残された僕は、一人呆然としていた。
するとピカイチから降りてこいという声が聞こえ、おっかなびっくり、ロープを手で握ってみた。一体どこまで降りるのだろう、と下を見下ろすと、ロープは一階下の教室へ続いていた。手で握った感じロープはしっかりとしていたが、ロープが切れないことを願いながら、窓から下に降りた。ピカイチは、僕がちゃんと降りれるようにしっかりと支えてくれた。僕が降りるとロープをぐいっと引っ張る。するとロープはするりと簡単にほどけて下に降りてきた。ピカイチ曰く、それは結び目の一方を強く引っ張った場合のみほどける、特別な結び方らしい。そして、どこからか長いつっぱり棒を持ってきて、器用に上の階の窓を閉めた。カギは、守衛さんの管理が甘いのでかけなくてもいいらしい。ただ、扉はいつも閉めておかないと怪しまれるため、どうにか工夫しているんだとピカイチは得意げに話し始めた。あの時、僕は窓を調べてはいなかったので、鍵がかかっているどうかはわからなかったが、実際にピカイチが消えた理由がわかり、心底感心した。そして、落ち着いて周りを見渡した瞬間、更に驚愕した。というのも、あれだけ彼を探し回った教室のすぐ下の階、これまで入ったこともない空き教室が、黒い模造紙で覆われ、まるで文化祭の展示空間のようになっていたことだった。

「俺、皆にはサッカー部って言ってるけど、実は天体に興味があるんだ。けれどもこの学校には天文部が無くて、作るにも顧問になれる教員がいないんだと。それに、俺が天文部に入っているなんてみんなが知ったら、サッカー部の陽キャが陰キャ部に、なんて馬鹿にするだろう。だから、俺は皆から隠れてこうして一人で活動することにしたんだ。休み期間を使って、理科室の望遠鏡をパクッて、色々やっている。」

僕は、じっくりと教室中を見渡した。その壁は、黒い模造紙のようなものが一面に貼られていた。そこには、星だろうか、所々に絵具の飛沫やらアルミホイルやらが散りばめられている。更に、天井を見上げれば、上から丸められたアルミホイルやら何やらが大小、様々なサイズでつる下げられている。床に目線を移せば、テープでばってんの目印がつけられていた。

「ここは、普段から鍵がかかっているから誰もこんなになっているなんて知らねえ。俺はこの教室をこのままにして卒業するんだ。そして、いつの日か、どこの誰かも知らねぇ奴にこの教室を見つけてもらって、そいつに『なんだこれ!!』って言われてぇ。その驚いた顔を想像して、俺は一人でしたり顔をするんだ。」

ピカイチがこんなにも饒舌にしゃべるなんて知らなかった。いつもなら、仏頂面でサッカー部の奴らに囲まれて、うるせぇ!とか言って、じゃれ合っている。普段は全くもって無口で、男でさえも絡みにくいのに、女子にとってはそれがかえって好評で、チョコレートは山程もらう、そんな奴である。それなのに、今の彼の言葉は次から次へと留まることを知らず、口から零れ落ちた一粒一粒が音を鳴らして僕の心に響いた。

「……すごいな。僕は、君のことを見誤っていたのかも知れない。」
「あ?」
「なんでもないよ。」
「なんだそれ。」

すこし沈黙が流れた後、ピカイチはばってんマークのテープを指さし、ここに寝ろと指示をしてきた。僕は、床に寝転がるのは背中に埃が付くから嫌なんだけどなと思いながらも黙ってそこに寝転がることにした。
僕が寝転がり、よいしょ、と視線を上に移した時だった。突然広がった目の前の光景に、僕は目を丸くした。先ほど立って見回した世界とは打って変わった世界が目の前にぐっと迫ってきたからだ。アルミホイルの星々は、大小さまざまだが、今にもこちらに降りかかってきそうだ。その中でも遠くで自己を主張する、ビー玉でできたそれはおそらく北極星だろうか、窓からの光を浴びて、まるで本物みたいに不思議な輝きを放っている。プラスチックの三日月は真珠のように上品な色で「夜空」に調和し、天井の「空」の色は、ただの暗闇ではなく、場所によって彩度が違う。絵具で書かれた星の色もみんな単調ではなく、銀色、白、青、たまに赤く色鮮やかに燃えている。無機質でまったくもって本物らしくもないこの「夜空」は、以前観たプラネタリウムなどとは比べ物にならないくらい、僕には本物らしく感じられた。僕が言葉を失って静かにみていると、隣にピカイチが寝転がってきた。

「文化祭の展示みたいだろ。笑ってくれてもいいんだぜ。」
「そんなことない、……感動して、言葉を忘れていた。」

 僕は、直ぐに反応した。ピカイチは、それを聞いて、少し黙っていた。最初、僕は、なにかまずいことを言ったのかと思って、内心どぎまぎしていた。二人の間に言葉は一つもなく、規則的な時計の音が僕に何か言うようにと催促していたようだった。けれども、この無言の時間は、だまって天井の「星」を見上げる時間なんだと思うと、それは僕とピカイチの間を埋めてくれるものに変わった。このよくわからない心地よさは一体なんなのであろうか。
時計だけが規則正しく音を刻む中、「星」を眺めながら、僕はぽつりぽつりとこれまでのことを考え始めていた。星を描きたいのに、そもそも星を見ようとしていなかったのではないか。かといって僕はプラネタリウムのような虚構では満足できず、悶々としていたのだ。けれどもここにきて、偽物なのにも関わらず本物のような「星」を見て、自分が感激しているのは、もしかしたらピカイチの見た「本物の星」に触れているからだろうか。もやもやと考えていると、さっきまで黙っていたピカイチが口を開き、静かに話し始めた。

「子供の頃に親父とキャンプに行ったとき、見上げた空が今でも忘れられないんだ。これまで料理をしていているときに俺らを照らしてくれていた焚火を消した瞬間、突如訪れた暗闇は俺に不安感を植え付けてきた。だけど、親父は静かにこう言ったんだ。『目に見えることだけを追うと、それはこれまでお前が体験してきたものをすべて否定してしまうことになる。一体誰が、世の中を正しい経験、正しくない経験に分けたのだろうか。正規ルートをたどれと言ったのか。それが本当はどうかなんて、暗闇だけが知っているんだ。暗闇と友達になれ。』って。」

ピカイチは、一語一句、父親の言葉を思い出すように、ゆっくりと話した。ピカイチの言葉を聞いていると、これまでモヤモヤとしていた頭の中がすっと整理されていくように感じた。

「……すごく、わかる。暗闇が怖いのは、何も見えなくて、突然孤独に感じられるから。でも、そこから目を背けてはいけないんだ。僕らは誰しもが孤独で、でもみんなとつながっている。それを実感することができる唯一の場所が、暗闇なんだ。視覚だけが過度に発達して人間に囲まれている、なんて錯覚している僕らが、一人になって聴覚、嗅覚を思い出せる場所なんだろう。」

 僕の言葉を聞いて、ピカイチは一瞬黙り込んだが、しばらくするとまたぽつり、ぽつりと話し始めた。

「ああ。孤独を知っているからこそ、他者に思いやりが生まれるように、孤独じゃないと見えてこないものがたくさんある。俺はそこで、明かりに頼りすぎて見過ごしていた星空に気づいたんだ。大小さまざまな星々の放つ光は、皆一億光年前の光だからもしかしたら今、俺の見ている星はもう亡くなってしまっているかもしれない。でも、それが俺の暗闇の中でやっと見つけた光なら、俺はそれを信じたい。あの日眺めた夜空は、キャンプ場が取り壊されちまって、もう一生見ることもできねえ。しかも悲しいことにそれを思い出すたび、記憶はどこか一か所を作り変えちまうから、もう記憶が正しいのかさえもあやふやなんだ。だから、俺は、この先忘れないようにと、この教室を使って、俺の視点をそのまま残す。回数を重ねるごとにぼんやりとする記憶を、一回形にしたいんだ」

ピカイチの声は、段々と小さくなっていった。それは、これまでの思いが一気に流れ出てくるのを抑えるためだろうか。ピカイチの弱った声色は、悲しみを抱えながら、けれどもどこか地に足がついているような力強いものであった。

「そうだね。僕らは皆がみんな、孤独なのに普段は《そんなわけない、人間はみんな輪になって手をつなげる》、なんてとぼけているんだ。けれども実際、僕らは孤独で、助け合いながらも結局は一人で目指すべき場所へ向かわなければいけないと、痛感する。その中で僕等は、どんなに頑張っても理想と現実のギャップを埋めれず、また、理想すらも疑わしくなる、そんな中で何かしようと躍起になる。まるで、夜間飛行に挑むパイロットみたいに。」

僕も、自然と思ったことが口から出てきた。僕自身淡々と話す方だと思っていたが、こんなにも饒舌に、思ったことが素直に出てくることには心底驚いた。僕の言葉に、ピカイチははっとこちらを向いたが、またすぐに視線を上に戻して、「夜空」を眺めていた。星空は、先ほどよりも柔らかく感じられた。黒色の濃淡が、闇に色があることを教えてくれ、乳白色の三日月は、優しく瞼を閉じている。僕は、自分の瞼が段々と重くなるのを感じた。受験、進路、卒業と目まぐるしい変化で振り返えれば道を踏み外すような不安定さ、何を忘れたかさえも思い出す暇もないようなスピード感の中で走ってきた僕が、こんなにも人前で安心することができたのは、久しぶりだと思う。僕がうとうとし始めた時、ピカイチがまた話し始めた。

「……カーマン・ラインっていうらしい。」
「え?」

「……海抜100km上空に惹かれた仮想のラインのことだ。成層圏、中間圏を越えた先の熱圏の中にあるこのラインは、曖昧なくせして、宇宙空間と地球とを分断する。それを越えたか越えていないかって、一般人から見たら興味がないことかもしれない。そりゃあ、ギネス記録とかだったら別だろうけど、俺らはいつだって他人に関心のあるふりだけだ。けれど、個々人にとっちゃ、このラインを越えたか越えてないかってすごく重要なんだ。特に、自らの限界に挑戦する自分にとってはな。」

また、随分と詩的なことを言うじゃないか、と僕は思ったが言わないでおくことにした。

「……へえ、面白いこと言うじゃないか。それが何だって?」
「皆がみんな、そこに行きつくことは出来ない。大抵の者は諦めるが、極稀に諦めの悪い連中なんかがいる。奴らは時に肩を叩かれ笑われ、悔しさで手元の設計図をくしゃりと握り潰しながらも、ただひたすらに理想を目指し、エンジンをかける。彼らは自分の決めた航路を飛ぶために機長となって機体を操縦し、上昇気流で上へ、上へ、と昇っていく。けれども飛んでいるうちにエンジンは焼き付き、翼が折れ、メーターは限界値を越えた地点を指し始めるだろう。それを目の当たりにした機長には、もはや何も残されておらず、もう自分の目と手足しか信じることができない。目指すべきそこはすぐ先か、それとも既に通過しただろうか。はたまた、そこへ行くにはアクセルだろうか、ブレーキだろうか。……特に、精神の問題とか、そうだよな。相手に届いたかどうかなんて、数値でも、客観的にも測れねえ。後は、受験勉強や部活だって。目に見える結果だけで測れるなら、学校が何のために教育を行うかわかんなくなる。つまり、それがすべてじゃねえんだ。評価だけに押しつぶされてちゃ、何のためにそれをやるのかが見えてこない。」

僕は、はっとなってピカイチの顔を見た。けれどもピカイチは、黙って「空」を見上げていた。その横顔は、どこか強く、決心を秘めた顔だった。それを見て、僕もたまらなくなって口を開いた。

「君ってやつは、本当にすごいな。僕のもやもやしていたことを一瞬で言いのけるなんて。展覧会に向けて『星』を、描きたかったんだ。けれども自分が直感で決めたテーマがまったく描けやしない、そもそもまともな星も見たこともないのになんで思い入れもないテーマを選んだかさえもわからなくて、作業に手もつかなくなってしまったんだ。……でも、それがカーマン・ラインなのかもしれないって思ったら、気が楽になった。僕が描けないと嘆いていたものは、僕なりの未知への挑戦だったんだ、あの高い位置へ向けて姿勢を低くして、飛ぼうとしてたんだって、今は思えるよ。」

彼の目は、母親の読む絵本の続きを、静かに待ち続ける子供のように光を指していたが、何も言わずにただ黙って聞いていた。

「……俺は、細かいことはよくわからない。でも、本人が言うなら、そうなんじゃねえか。いくら言い聞かせたって、パズルみてえにパチンと合うことだったら、それが答えになっちまうんだ。もし答えが違っていていくら俺が説得しようと頑張ったって、本人が納得しなきゃ意味がねえんだ。だから、結局は、お前が納得できたかどうか、この問題なんだよ。星がなんだろうが、俺は知らねえ、俺は俺、お前はお前の知っているそれがある。本当は少しづつ違うはずなのに、勘違いしちまっているかもしれねぇ。お前はお前、思うところがあるならそれを信じればいい。」

「僕、卒業前にこうしてピカイチと話せてよかったよ。」
「その呼び方すんじゃねえ」

この噛みつき方も、もう慣れてきたところだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?