見出し画像

カーマン・ラインを越えて行け(the other side)

 朝、美術室の扉を開けると大抵先客がいる。くせっ毛で長めの黒髪を規則正しくワックスで整えている彼は、いつも窓際に座ってデッサンしている。美術室は南校舎に位置しているからか、日の光が一日中差し込んでいる。干された画材が白く光り、彼を照らすレフ板になる。色の白い彼の肌が、白いキャンパスよりも映えて見えるのは、他の女子にとってもそうだろうか、それとも私の主観だろうか。私が部屋に入ってきたことにはまったく気づかず、真剣にキャンパスとにらめっこをする横顔に魅せられ、周りの時が一瞬で止まり、空間に縛り付けられるように見入ってしまうのはいつものことである。
2,3分ほど固まっていたが、思わずはっと我に返り、後ろから彼に声をかける。

「ねぇ!」

 彼はこちらを振り返り、それから低い声で「なんだ、睦か。」と私の名を呼んだ。集中を妨げられたことが不服みたいだった。彼はいつも絵が優先で、幼馴染の私と話すことは、二の次である。彼は女子よりも絵に夢中なので、クラスでは変人扱いされている。いつでも彼は、美術室にこもりっきりで、どう自分の気持ちを表現しようか、この筆を使ったらどう表現できるのかしか考えていない。そんな変人も、顔も悪くないし身長も高いし成績も良く、女子からはアンニュイなんて言われ熱い視線を向けられている。けれども当の本人は知らぬ顔で常にキャンバスとおしゃべりしているもんだから、神様はなんて無駄遣いをしてしまったのだろうか。それくらいならば、クラスの田中の顔面偏差値向上に協力してあげればよかったのに、と思ってしまう。

 彼と数分だけ世間話をした後、私も自分の作品に集中するために、場所を移す。それでも、やはり少し彼が気になって、集中するまで10分ほどかかる。3週間後にはコンクールが迫っているので、早く完成させなければいけない。高校の卒業式もこの前終わり、美大の進学も無事決まって入学前の課題もあるところだが、顧問の先生が高校3年間の集大成として作品を残す機会を下さったので、私は自分の好きな水墨画で出展しようと取り組んでいる。美大の学科は油画だけれども、小さいころから半紙で遊ぶのが好きで水墨画の教室にも通ったりしていた。初めて墨に触れたのは小学校1年生の時で、25センチの幅の中に墨汁が静かに滲んでいく過程をずっと見つめていたのを覚えている。どこに、どのように滲むのかもなんとなくでしかわからず、一文字目がうまく書けた思えば別の字で間違え、人をイライラさせてくる。しかし、そこで載せられてはいけない。それは、水墨画も同じで、例えばここ、水門を表現するときなんか、特に緊張してしまう。洋画とは異なり、空の色が塗りつぶされることはなく、白、それが背景であり、真っ白な空間に黒を生やしていく。擦れた跡、それすらも空間の空気の擦れ、震えそのものであると、個人的には思いながら描いている。


———————————————————

ガラリと美術室の扉が開き、顧問の先生が入ってきた。
「お疲れ様!こんな時間までご苦労様、ほら、下校時間だから早く帰って帰って!!また明日も作業できるから。アイディアは論理的に導き出すだけじゃないんだよ、お風呂の中で突然ぶり返してきたりもするんだから!とにかく、今からすることは体を休める。切り替えが大事だよ!」

 そこでやっと、私も彼も5時間も集中していたことを知った。そうしていそいそと画材を片付け、二人一緒に美術室を後にする。夕日に照らされる美術室を背にし、暗闇に向かって二人して無言で歩き続けた。

 彼とは幼馴染であるが、一緒にいる頻度はそんなに多いわけではないし、よく話すわけでもない。おそらく、同じ美術部にいるので、一緒に行動する機会が他より多いわけである。一応話はするが、たまに思い出したようにポロリと会話を漏らす程度である。気まずいわけでもない、寧ろ、無口な彼のことだから、これでもよく話す方で、他の女子とはもっと口数が少ないはずである。

(だから、クラスの友達は私が彼と一緒に帰ったりしているのを見ては羨ましがられる。けれども、現実は、そうじゃないんだよ。話すのはいつも私からで、相槌も「そう。」とか「うん」ばっかり。私の趣味とか全く把握してないんじゃないかな。なのに12月30日の私の誕生日には、寒い中「おめでとう」の一言と、プレゼントを渡しにきてくれるあたり本当に真面目っていうか。)

 2人で、同じ方面のバスに乗っている間、ぽつりぽつりと会話をする。彼は半分別のことを考えているのだろう。窓の外の景色をずっと見つめている。いつものことなので、特に何も言わないが、内心では少しでも彼が注目してくれる会話はないかな、と考えてしまうのが少し悔しい。

 彼に片思いをすること、何年目だろうか。幼稚園からの付き合いだからそこからだろうか。物心ついたころから恋心を抱いていると思う。けれどもそれは叶わないので、いつも溺れるような心地である。なぜならそれは簡単なことで、彼は、私に興味がないためである。昔読んでいた少女漫画のように、恋愛とは、もっと甘いものだと思っていた。一人でいても笑みがこぼれるような、もっと浸っていたくなるような。お陰で私は彼氏もつくることができない。これまで何度も告白されてきたのに、いつも彼の顔が過ぎり、断り続けてきた。

 (ああ、大切な学生生活がもったいない。いっそのこと、忘れてしまえたらどんなに楽だろうか。いつか、この恋心が泡のように消え去って、少女漫画のように、クリスマスのイルミネーションの中、デートができるような甘ったるい恋愛ができる日が来るのだろうか。)

 そんなことを考えながら、単調な風景を見ているうちに、段々と眠くなっていく。うつらうつらとする眠気と戦いながら、どこかでしょうがないと思って目を閉じた。おそらく、私も彼も終点まで寝過ごすだろうけど、今はもう眠気に勝てそうにない。


———————

 ある日の彼は、とにかく切羽詰まっていた。私が視界に入ってきただけで、眉を顰めた。こういう時、放っておいた方が本当はいいんだろうが、私もそこまで大人にはなれず、気分転換になればいいと積極的に雑談をしていた。いらいらしつつも返答してくれる彼に嬉しくなってしまった私は、彼の表情までよく見れていなかったのだ。思えばコンビニに寄ると言って逃げようとした彼を放っておけず、ついて行ってしまったあたりから選択を間違えていたのかもしれない。そうして、帰り道、彼が夕日を見つめ立ち尽くすその姿に、なにかを言わないといけないと思い、ついこう言ってしまったのだ。

「疲れているみたい、ゆっくり休んだ方がいいよ!」

 思えば、大丈夫じゃない人に対して何も考えずに大丈夫かと問いかけるようなことをしてしまったのかもしれなかった。彼の顔色が曇っていったことに気づいた私は、何とか弁解しなければいけないと思い、言葉をつづけた。
「あなた、いつも頑張りすぎなのよ、少し休んだ方がいいよ!あなたが……」
 言葉は勢いよく流れ出し、こんなはずじゃないのにと心では思っていても、言葉は私とどんどんかけ離れていって、もう引き戻せなかった。ああ、こんなことが言いたいんじゃない、こんなことが言いたいんじゃないよ。
そんなことを考えても時すでに遅し、言葉を全部吐き出した後には、彼がうつむいて手を握りしめ、何かに必死に耐えているのが見えた。

「……お前のそういう態度、本当にむかつくんだよ。」

 彼が、私に対してどう思っていたのかを理解するのは簡単だった。聞きたくないと思っていたし、これまで背けてきた現実を、彼は、怒り任せに、そして同時に、淡々と語ってくれた。私のこれまでの行為が結局はエゴで、彼にとって私は結局人生の通過点の中で出くわした一人にすぎないのだと、痛感させられたのであった。ただ、不思議と涙は出ず、去っていく彼の背中を見て、ショックを受けつつも、半分腑に落ちた気分もあり、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 こうして私は彼とは口を利かなくなった。とは言いつつも、一方的にキレられて去っていったので、最初は突然のことでよくわからなかった。その後はショック過ぎて記憶もあいまいで、気が付いたら家に着き、お風呂にも入ってパジャマでベッドの上にいた。窓から見える星空がいつもよりも青々としていて、ついつい見入ってしまうのは、この複雑な心情のせいだろうか。

「…これまで信じていたもの、培ってきた価値が崩れ落ちていく。良かれと思ってしたことが、彼を深く傷つけた。」

 星を見ながらぽつりとつぶやいた一言が、痛いくらい身に染みていった。
青々とした春の夜空はきれいだが、ぼんやりと星が滲んでいて、それは、まるで大事なものが見えないように隠してしまっているみたいだ。涙のように伝う流れ星も、これでは空に隠されてしまうだろう。まだ眠くならないので、しばらく風に当てられることにした。
 無心で星を見ているはずなのに、彼は、大丈夫だろうかという思いが頭から離れなかった。彼の助けを求める声を掬い取ることはできたのに、それを踏みにじってしまい、一気に、世界中の重荷が肩に乗っているような気持ちがする。

(この、崩れた価値を立て直すために、そして彼への信頼を取り戻すために、果たして、どのくらいの時間を要するのだろうか。)

 見えない他者を傷つけるのにはこんなにも慣れているくせして、目の前の人が傷つくのを見ては後悔と悲しみに暮れる。こんなにも不器用なのは、人間が、一方に目が行けばもう一方を厳かにする不完全な生き物だからで、私はもうここで過ちと向かい続けるしかないのだ。

(もっと強く、賢くなれば、越えられるはず。……それはわかっているけれど、今はまだ、何も考えられない。)

 ここまで考えたところで、突如、眠気に襲われた。静かにベランダを後にし、重くなってきた瞼をゆっくりと閉じた。

——————————————————————

 後日、展覧会の日になり、私達美術部の作品は展示された。私の作品は、優秀賞をもらった。彼からは、しばらくして謝罪のメッセージが届いて、今では何もなかったかのように話ができるが、卒業後は久しくあっていない。そんな中、彼が突然声をかけてきた。

「…元気だった?」

 彼から話しかけてくるなんて稀なことだし、ましてや気まずそうではあるが、彼はしっかりとこちらの目を見ている。

「おめでとう、睦、優秀賞だろ。美大でもがんばれよ。」

 一皮むけたような強い眼差しに当てられ、彼の成長に気づいた。彼は彼自身で困難を克服でき、一方で私の気遣いは裏目に出たし、全くもって必要なく、彼が必要とするのは私ではなかったのだ、と思い知らされた。もしかしたら、この3年間、成長できていないのは私だけかもしれなかった。様々な感情に阻まれ、自分の立ち位置さえ見失った私と違い、彼はどんどんと私を追い越していく。結局彼から抜け出せない私は、いつになれば出発できるのだろうか。まだ、わからない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?