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カーマン・ラインを越えて行け⑤

 帰る時は、またロープを使って一階まで降りた。そしてピカイチと別れてから、僕の頭の中は透き通っていた。はやく、自分の思いを形に残さなければと思い、家に帰ってから夜、寝ずに下書きを始めた。描きたい、ただその思いを誰に向けるわけでもなく、ただただ必死に筆を走らせた。突然の僕の変貌ぶりに驚く睦や先生は気にも留めず、その日を境に僕は朝から晩まで美術室にこもり、作品を完成させるべくキャンパスと向き合った。白に、色を生やす行為は、集中している僕にとってそれは、そんなかわいらしいものでもなんでもなくて、ただ、白を闇で塗りつぶすのに必死だった。塗りつぶした瞬間だけ、息ができたような心地がし、色を間違えると一気に酸素を奪われる。
 気づくべきであった、カーマン・ラインがまだ先か、それとももう通過したか、それはもう機長の僕にすらわからなくて、しかもそれは僕にしか決めることはできなかった。そうして僕は、美術室で、家でと場所を転々としながらも絵を描き続けた。
 そして、今日も美術室にこもって絵を描いていた。本日中に郵便局で郵送しなければいけないが、郵便局は17時にしまる。残された時間は、残り3時間を切っていた。

(間に合え、間に合え、間違えたって、新しい案を思いついて描き直したくなったって、もう時間がそれを許してくれない。もうゴールがどこかなんて、わからない。だから、だからこそこの作品に命を懸けるんだ。)。

 額からは汗が吹き出し、目に入って前が見えなくなる。緊張で汗が体中を濡らし、びしょびしょになった。半分寒いのに半分熱い。ただ息を切らし、一生懸命に筆を握る。筆を長時間握り手には豆ができ、そこから血が出た。痛みに顔をゆがめつつも、もう手を放したくない。何時間も座り続けて限界に近い。けれども、今僕が少しでも動けば、この緊張感、澄んだ空気は一瞬でなくなり、僕はまたしばらく筆を握ることができなくなるだろう。一度でも気を緩めたらそこは僕の”終わり”だ。でも、まだまだゴールは先にある、その感覚にただ引き寄せられて、僕は筆を走らせた。半意識的且つ、半無意識的に、白いキャンパスに色を生やす。時折カーブを描いては混沌をつくる。本当は、「本物の星空」なんてわからなかった。僕の、「星空」は決して「本物」のようなものなんかではなくて、駄菓子屋の粉末ジュース、そう、あんな感じで無機質で、ごちゃごちゃしている。そして、「本物」っぽくないんだ。

 (……でも、それでいいんだ。本物との乖離、人工と非人工、有機質と無機質、真実と虚構、理想と現実。こうした真逆のものが合わさっている場所にこそ「本物」を見出そうとしているんだ。本物、偽物、あるかもしれない。でも本当は、それらを明確な線で分けられるわけでもなくて、だから僕のこの“目”で見たものが本物でも、偽物でもどうでもいい。僕は、僕が見た本当、僕が見た偽物を信じたい。プラネタリウムが本物みたいなのはわかる、でも僕にはあれは本物ぶっているようで、納得できなかったんだ。それなら、偽物でも、ピカイチの作った夜空のほうがよっぽど本物らしい、そして、美しかった。)

 鉛筆の線がゆがむのを感じ、歯を食いしばる。手が痙攣しはじめ、もう駄目だと体が叫んでいるようだ。やばい、線が少しずれた。震える手で描いた曲線は、望んだものと違ってく。ああ、なんで今日までなんだろう、描き直したいのにできないなんて、神様というものがいるなら意地悪に違いない。僕には時間がないんだ、だからこれは僕の作品であり、命であるからこれを出すしかないのだ。なんて悔しいんだろう、なんて思いつつもこの作品に全神経を集中させた。

 ——あと少し、あと少し。最後の線を描いた後、もう郵便局に持っていくからと、
 美術の先生が教室に入ってきた。
 僕の絵はそこで「終わった」。

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 郵便局にはなんとか間に合ったが、そのあと僕がどうやって家までたどり着いたかは全く覚えていなかった。なぜなら、目が覚めたら家のベッドの上で、しかも日付を二つばかしまたいでいたからだ。どうりで体中がいたいわけだった。しかも、頭もぼーっとする。ケータイを見れば睦から心配のLINEが入っていたので、返信した。
【二日くらい寝てたわww】
【というか、この前怒ってごめん】
【作品、提出できたからもう大丈夫】 
 あいつは、僕が怒鳴り散らしてもこうして僕を心配して連絡してくれる。こういう友達をなくさないようにしようと思う。ケータイを日頃から手に持っているあいつのことだから、すぐ気づくだろうと思ったが、案の定すぐに返信が来た。

【睦がスタンプを送信しました】
「ふふ、……そのスタンプ、キモすぎだろ。」

 僕と睦は、今後大学が変わっても、ずっといい友人でいられる気がする。

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 後日、僕は睦と一緒に、出展したコンクールに見に行った。結果、金賞は睦がとっていった。
「おめでとう。」
僕は、しずかに彼女に微笑んだ。
「ううん、そんなこと。でも、ありがとう。」

 これでいいのだ。どういったって、誰が何と言ったって、僕の見た景色を純粋にそこに投影できたんだから。僕は、これから大学で授業を受け、普通の人生を送ることになる。けれども、絵は描き続けるだろう。星の絵は、まだまだ描き足りない。

【ピカイチ:すまん、天体観測して寝不足。】
【ピカイチ:明日もやるけど来るか?】

 僕には、星の知識はないが、僕に新しい世界を教えてくれた彼に出会えたから、僕はこれからも星について、人生を通じて考え続けることができるのだ。この絵を見せたら、彼はなんというだろうか。なんたって、僕の絵には彼が描かれているのだから。
 一緒に見上げた、「夜空」、僕の視点だけが彼の輝く目をしっていたのだから。

【夜、何時?】とだけ返信し、電源を切った。僕は今日も、軌道に乗って目的地を目指す。そうして、その先の星屑のじゅうたんに飛び込む日だけを夢見るのだ。僕は、進む。
そして、僕は、つぶやくんだ。
「カーマン・ラインを越えて行け。」


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