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リア充は爆発しろ、だが『きみ波』は見とけ:『きみと、波にのれたら』前編


どうもです。

今回は劇場アニメ『きみと、波にのれたら』です。

『マインド・ゲーム』、『四畳半神話大系』の湯浅監督の新作とあって、ギラリと鋭利でポップな作品を予想して見に行ったら、まさかの超王道ラブストーリー。

あまりにまばゆい愛に「リア充云々」というオタク達の僻言もかき消されていくような、爽やかで夏らしいアニメでした。


予想との食い違いから批判する方も見られましたが、個人的には、ストレートな作品の中にもしっかりと湯浅監督らしさとアニメーションの本質が感じられる傑作でした。


リア充。決して解りあえぬもの。

リア充。

言葉の対象は「カップル」と大差ないが、同時に強いバイアスも含まれるこの言葉。

大抵は孤独に生き抜く哀・戦士たちが、現実を謳歌しているつがいを僻み、叶わない夢を見るときに用いられます。

映画は大学生のサーファー(=ガチ陽キャ)向水ひな子と、正義感の強い消防士(=確実に陽キャ)雛罌粟港(ひなげしみなと)が運命的に出会い、付き合い始めることから始まります。

「もっとも陽キャだと思う趣味」12年連続第1位(引用元

そして二人はたくさんの場所にデートに行くのですが、そのシーンの殺傷能力が半端じゃない。

もともと湯浅監督は性格をキャラクター自身の視点から描くのが非常に上手で(詳細は後編)、監督の描くキャラは皆きらきらと躍動します。その長所が功を奏してか災いしてか、ヲタクのガラスのハートを完膚なきまでに叩きのめすリア充っぷりを見せつけてきます。

デートの様子がミュージックビデオのように映し出されながら、主題歌である“GENERATIONS from EXILE TRIBEの「Brand New Story」”を2人が歌うこの場面、しかもときどき吹き出して歌声が途切れるというおまけつき。


なんと公式がYoutubeにあげている。覚悟はいいか。

作画監督の小島氏が「『見せつけてくれるな』と思いながら描いていました(笑)」と述べるほどのいちゃつきぶりです。

前のほうに座っていた僕は、背中にひしひしと伝わる敵意の目線と目の前の甘ったるい光景との温度差で気化しそうでした。


加えて、特に陰の者から嫌われるのが、自分と恋人だけで世界が閉じている陽キャ。

所構わずくんずほぐれたり、自分たち以外の利害を度外視したり、とかく周りが見えていないリア充ほど陰キャを震え上がらせる者はいません。

まあ周りを考えていないのはどちらも同じなのですが。

この作品の主人公、向水ひな子もまさにそういう陽キャ。それゆえに映画を見た多くのアニメファン(≒陰キャ)の怒髪を天衝させます。

明るく誰にでも屈託なく話しかける姿は親しみやすいですが、周りも自分も見捨てて彼氏だけに焦点を絞っている姿を見れば、誰だって「恋なんてアホのすることだ!」と叫びたくもなります。


このようにして、目の前に広がる圧倒的「陽」の世界に自らの影の濃度を再確認させられ、傷つく必要もないのに深く傷ついたオタク達を、真の絶望に堕とすのがひな子の彼氏、雛罌粟港。

というのも、彼は「仕事も料理も運動も勉強も何でもできる」、「困った人がいたら見捨てられない」、「実は努力家」の「爽やか」な「イケメン」なのです。

煌めく海にも負けず輝くこの笑顔に、誰が揶揄を飛ばせようか

そして、声をあてるのは、かのGENERATIONS from EXILE TRIBEより、片寄涼太さん。

「ザイル系は陰キャの敵」という通念は、「巷にはびこるパチモンであれば所詮偽物なので中傷の余地が大いにある」という前提を基にしています。しかし当人ともなればまさに港のように完璧な存在。あんなに饒舌だった陰キャ同志も黙して平伏せざるを得なくなります。

現実世界から切り離されたヲタクたちが群青の空に暴言を吐いても、無限の彼方に寂しく消えていくだけ。

むしろ教室で空を眺めて厨二気取ってたら、「何1人で飯食ってんだよ、こっちで食おうぜ?」とか言われて無理矢理輪の中にねじ込まれ、「明日クラス会あるの知ってるか? お前も来いよ」とか不要な情報を伝えられ、挙句の果てには「お前と一緒に卒業できてよかったわ。卒業してもまた会おうな」とか言われ、マジで会うことになり兼ねません。

何も言えねえ。(引用元

こうして僻言を飛ばすことすらできなくなった陰の者たちは、ただ己の汚れっちまった人生を哀しむことしかできなくなるのです。


まだ何者でもないキミたちへ

ストーリーをシンプルにしたり、恋愛ものにしたり、GENERATIONSを起用したりと、とことん大衆を意識して作られている映画であるため、アニメオタク達が嘆き悲しむのも一理あるのかもしれません。

しかし、この作品はラブストーリーに目が行きがちですが、伝えたいメッセージはより本質的な部分にあります。

ただの恋愛モノなら上海国際映画祭で最優秀アニメーション賞は取れません。監督が言うように、「シンプルなものを豊かに描くのが、実は一番難しい」のです。

サーフィンのアニメーションだけでも最高だから見て

ひな子がそのように視聴者をイラつかせるのは、彼女がまだ成長の過程にあるからにほかなりません。パンフレットによれば、ひな子は「雛」から名前をつけたと述べられています。この物語の主人公は、自分が何者だか分からない「雛」なのです。

成長の余地を残した不安定な存在として描かれているため、見た人をイライラさせてしまう。決断できない子供を見て、「こうしたほうが良いよ」とアドバイスしたくなる気持ちと同じです。しかしアニメのキャラクターにはアドバイスができないので歯痒く感じるわけです。

一方で、そのように誰の目にも明らかに不安定な主人公は、成長したときに、その差が歴然とするメリットもあります。

映画の早々に港は命を落とします。そのせいで、港にすべて依存していたひな子は絶望してふさぎ込んでしまい、「兄のように」と毅然とするあまり、妹の洋子は周りに攻撃的になってしまい、後輩のわさびは先輩の代わりにならなければと決意するも、敵わないと嘆きます。

ひな子にとっても、わさびにとっても、洋子にとっても、自分たちの光だった「主人公」がいなくなり、どのように死を受け入れて乗り越えるのか。後半は、彼らが「自分の波を見つける」話へとシフトしていきます。

その中で、二人のラブストーリーでは脇役だったキャラクターたちが、次々と「波にのって」、輝きだしていきます。洋子は自分のやりたいことを見つけて自信のないわさびを救い、わさびは消防士として人々を助けられるようになり、ひな子は港に依存するだけではなくなっていく。

そして辿り着くのは、誰もが誰かを助けている、誰でも誰かを助けられるという、まぎれもないヒーロー譚です。

まさにこの映画は、偶然の運命を享受するだけで、積極的になれなかった「雛」が、能動的に自らの運命を掴みとり(=波にのり)、誰かを救うヒーローになる物語なのです。


「ヒーロー」がいなくなった世界で

この価値観は、湯浅監督が『マインド・ゲーム』や『DEVILMAN -crybaby-』でも見せた監督の信条の1つです。

『DEVILMAN』の主人公不動明は、悪魔に魅入られたときから「デビルマン」であり、主人公として生まれてきた存在でした。しかし、向水ひな子は当初ただ港に従うだけで自分に積極的になれない存在として描かれます。ガンダムの宇宙世紀シリーズだったら強化人間として悲惨な死を遂げそうですが。

もしかして→「クェス 嫌い

ひな子は最初は何者でもない、「主人公」ではないキャラクターです。この時点では現実を受け入れられておらず(波にのれておらず)、観客を苛立たせる行動を繰り返します。ですが、何でも完璧にこなす「主人公」のような港と出会い、幽霊になった港からサポートされる中で、彼女は自分の「波」を見つけようと変わっていきます。

海で命を落とした港は、レコードのようにひな子に刻まれた歌がトリガーになって、水の中に現れます。彼女は、当初はまた港に会えたことを喜び、かつてのように港と生きることを選択します。しかし、港の思惑は彼女とは異なり、ひな子が自立できるようになることでした。

「俺はひな子が一人でも波にのれるようになるまで、何度でもひな子を助ける」と繰り返す港は、あまりに献身的で共感しにくいですが、実はかつて港はひな子に命を助けれていたことが判明します。ひな子こそが港のヒーローであり、ひな子のおかげで港は誰かを助けたいと努力するようになったのでした。

ひな子がいたからこそ港は波にのることができ、再び出逢った後、今度は港がひな子が波にのれるよう助け、そしてひな子もまた他の誰かを助けていく……そのようにして社会は廻っている。この映画が伝えたいのは、まさにこの「誰もが誰かのヒーローである」というメッセージです。


『DEVILMAN』でもっとも魅力的で悲惨なあの9話において、人々から罵倒されモノを投げつけられながらも説得を止めないデビルマンの涙に、少年は初めてデビルマンを受け入れました。

彼は「ヒーロー」と出会って大切なことを教えられた人の象徴です。そして、彼の存在によって不動明自身も(一時的ではあるにしろ)救われたことは言うまでもありません。少年は不動明を救ったように、これからも誰かの「ヒーロー」になっていくでしょう。

引用元

「誰もが知らない間に誰かを助けている」というメッセージは、これまでの作品でも意識されてきながら、物語全体を通して表現されることはありませんでした。

1人の人間の小さな努力が、巡り巡って多くの人々に伝播していく。「世界を劇的に変えるようなヒーローにはなれなくても、誠実にきちんと生きている人たちの存在がすごく励みになる」という監督のメッセージは、当然のことすぎて、これまでアニメでは伝えようと意識されても、このメッセージを中心軸に物語が作られることは多くなかったのではないでしょうか。


アニメの「リアリティ」とは

そのような「小さな幸せ」を伝えるなら、アニメでなくても、実写の短編のほうがいいのではないか。実際そういったCMや映像はごまんとあるぞ。そういう意見も確かにあるでしょう。

しかし、同時に複数の人生を描き、無数の人生が織りなす無限の可能性を描くのなら、アニメはもっとも適した媒体の1つになるはずです。

アニメは実写よりも抽象的で、描写できる動作も限られています。実際の俳優のような複雑な表情や何気ない動作まですべて演出するのはほぼ不可能ですし、リアリティの問題が常に付きまといます。

特にアニメは選択と集中のメディアです。実写よりも1度に目や耳に入ってくる情報量は圧倒的に少ない。しかしそれゆえに、入ってくる情報が実写よりも強調されます。アニメはすべての要素をデザインしなければなりません。そのため、実写ではデザインできない環境や世界観にも手を加えることで、演出の効果を最大限に発揮することができるのです。

また、抽象的であるがゆえに、さまざまな人間の受け皿になり、ときには制作者の思惑を超えて観客の心を揺さぶります。

主人公1人をどれだけ複雑に多面的に描けるかを比較したら、アニメは実写に到底敵いません。しかし、どれだけ異なる立場を表現し、どれだけ異なる立場の人々に共感させることができるかを比較すれば、アニメは実写をはるかに超える力を発揮します。

肉食動物と草食動物が手を取り合う『ズートピア』が好例です。

特に湯浅監督は強調と捨象が激しく、それゆえに鋭利な映像が生まれます。そしてキャラクターの性格を描くのが上手い湯浅監督によって、キャラクターたちはきらきらと躍動し、全身全霊でそのメッセージを表現することができています。ありふれたメッセージに、非常に豊かで新鮮な彩りが与えられているのです。


陰キャにとってリア充は忌むべき存在であり、決して手を取り合うことのできない宿敵です。しかしこの映画が伝えるメッセージは、陰と陽の隔たりを超えて、すべての人々が共感できるものでしょう。映画の最後には、僕と同じように、あれだけ敵意を向けていた陽キャ代表向水ひな子の涙で号泣したはずです。


陽キャを理解する必要はない。

リア充は爆発しろ。

だが『きみ波』は見とけ。



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(特に明記のない画像はPVのスクリーンショット)

(後編はもう少し真面目に、この映画と湯浅監督について語れればと思います)

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