ちゃんと「しゃべる」のは難しい
【文字数:約1,000文字】
前に『TANGO TIME』という2次創作小説を書くにあたって、配信でVtuberの人が話すのを聴き返した。
そのときに『ナイフ』や『流星ワゴン』などの著作がある、作家の重松清さんがラジオ番組で話していたことを思い出した。
番組において小説の書き方についての話をしており、初稿の会話文は改稿するたびに地の文になっていくとか、そんな内容だった気がする。
その中で人の会話というのが、よくよく聴いてみれば「ちゃんとしていない」という話になる。
会議などの目的やゴールのある会話はもちろん、気軽な雑談などと呼ばれるものについても、やり取りそのものを目的とする部分がある。
先の雑談配信についても同様で、内容だけを書きだすなら数行で済んでしまうように思いつつ、実際は当たり前のように2時間とかが経過している。
それは純粋な「情報」を交換するだけでなくて、そこに付随する言葉遣いや言い回し、こちらの応答、それに対する反応といった複合的な営みのためだろう。
いわゆる内輪ネタや鉄板のやりとり、あるいは思考の読み合いのような時間が積み重なり、気づけばこんな時間、というのが毎回の感想だ。
たぶん相手がVtuberでない生身の人間だったとしても、ボイスレコーダーなどで会話を記録したら、けっこうな部分で中身のない部分があると思う。
だからといってそれがムダかといえばそんなことはなく、言語化されない空気をやり取りする面白さがあるからこそ、気心の知れた人とのやり取りは時間を忘れてしまう。
小説は「言語化する芸術」とするのが適切だろうから、ふわっとした見えない空気を描くのは苦手だ。
とはいえ、文字という輪郭から読み手に想像させる手法もあるし、会話文を多用する作家さんもいる。
自分事にして置き換えるなら私は会話文が多めで、その中身は読み手からすると漠然としたものにしたい欲がある。
あくまで「あちら側」の世界での話を主人公を通して観測しているような、どこか映画的なものを志向しているというか。
分からなさを飲み込んだまま読み進め、あるときに謎が解けるようなプチ・ミステリーとかが理想だ。
でもそれが「分かりにくい」と忌避される風潮もあるそうだけど、「1+1=2です」というやり取りは面白みに欠けるような。
かくいう私はたいして話が上手いわけでもないので、その鬱屈を物語にしている面は否めないのだけれども。
なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?