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推しのVTuberが風になった友人に思えた話

【文字数:約6,000文字】
#創作大賞2024 #エッセイ部門


 私は去年の今くらいまで、動くイラストを用いて配信をするVTuberについて、よく分かっていなかった。

 ぼんやり存在そのものは知っていたけれど、意識できるようになったのは「星街ほしまちすいせい」さんのラジオを聴くようになってからだ。

 そのまま星街すいせいこと「すいちゃん」が推しになって、人生ハッピー世界が輝いて見えるとかなら良かったけれど、そこまで話は単純ではない。


 ちょうどVTuberに関わる物語を考えていたこともあり、実際に配信を観るなどして数ヵ月が経った頃、とあるVTuberの存在を知る。

 日本きのこマイスター協会が公認キャラとして「こまたんご」というVTuberを採用したとwebニュースで知った。

 「きのこマイスター協会」なる団体があることさえ初耳で、協会のサイトには次のように書かれている。

きのこの美味しさ・機能 調理の仕方を自信を持って語れる きのこのソムリエ それがきのこマイスター

 平たくいえば普及促進に努める一般社団法人とのことで、協会案内のページを開くと「理事長のあいさつ」から始まり協会概要、組織役員などが並んでおり、ある疑問が頭に浮かぶ。

「めちゃくちゃ堅い組織なのにVTuberが公認キャラだと……?」

 観光地のPRや地域興しのため、特産の果物や名物、史跡などを擬人化した「ゆるキャラ」がVTuber誕生の下地となったように思う。

 頭にキノコが生えた「奇ノ駒たんご」さんもその流れを汲むのかと思いきや、調べてみるとそれだけではないらしい。

 きのこマイスター協会が認定しているマイスターには3種類あって、シンプルに「きのこマイスター」とした場合は中級に位置しており、入門のベーシック、より専門的なスペシャルがあるそうな。

 そして奇ノ駒たんごさんは中級のきのこマイスター資格を持っているそうで、2024年版の認定者リスト約260名の次にちゃんと掲載されている。

 配信を観ていても赤い傘に白いボツボツの「ザ・毒キノコ」で有名な、ベニテングタケの学名 Amanita muscaria などを淀みなく話している。

 キノコの元と呼べる菌糸の培養も行っているそうで、そういった研究機関と関わりがあるのだろうかと想像しつつ、キノコ関連のゲーム配信をするあたり、すごくVTuberらしいというか。


 私自身はゲームを思い出したときくらいしかやらない、というか時間がなくて物理的にできないため、プレイしているゲーム画面を観るのはe-sportsの観戦に近い。

 他には絵を描く配信もあるけれど、毎週の恒例になっているのが菌曜こと金曜日に行われる雑談配信であり、名前の通り定まったテーマのない雑談が繰り広げられる。

 本稿を書いている直近の4/26だと忘れられた政策「プレミアムフライデー」を彷彿とさせる華菌と題しており、熱心なリスナーたちと盛り上がるのが恒例になっている。

 内容は普段どおりの雑談配信ではあるものの、江戸時代のキノコ栽培について触れ、運任せな栽培方法に雨乞いのような儀式があったのだろうか、といった話が出た。

 静岡の修善寺にある「静岡県きのこ総合センター」を訪れた際、キノコ栽培の歴史に関する展示などから、樹木にキズを付けて生えるのを待つ、という方法が昔は取られていたそうな。

 もはや栽培というより神頼みであり、現在のような樹木に種駒を打ち込む原木栽培、おが屑などを使った菌床栽培が広まったのは、わりと近年のことらしい。

 そもそもキノコは土中に広がったカビのような物体が、胞子を飛ばすために作った子実体と呼ばれる器官という話ですら、配信で始めて知ったという人もいる。


 きのこマイスター協会公認から、奇ノ駒たんごさんの配信を観始めて半年が経ち、配信そのものは1周年の節目を迎えた。

 その間にどういった距離感がいいのか模索する中で、やけに近づき過ぎて後悔したり、自分が応援しなくてもいいと考えたりした時期がある。

 それでも半年に渡って活動を追ってきたのは、肉声によって自分という存在を認識されるのが嬉しかったのもありつつ、どこか懐かしい感じがあったためだ。

 最近その理由について言語化できるようになり、本稿のタイトル『推しのVTuberが風になった友人に思えた話』を書くきっかけとなった。

 この友人についてはAという仮名で前に記事を書いている。

 つまり私は友人Aと、VTuber奇ノ駒たんごさんを近しく感じている。

 VTuberは基本的に素顔を出さずに活動しており、外面を指して「似ている」とは言えない。

 では何が近しく感じさせるのかというと声そのものや話し方、考え方といった部分だ。

 もうすこしAの声は低かったような気もするけれど、なにぶん昔の記憶であるし、おおよそ似ていると認識している。

 後の2つは多分に感覚的なものであるが、慎重に言葉を選ぶために言い淀むところや、そこかしこに気遣いが見え隠れしている点だろうか。

 他にオタク気質ゆえの好きなことを話すとき多弁になりがちで、自分のことを「キノコ人間」と呼ぶときも多いながら、「ぼく」とするのにいたっては完全に同じである。


 AさんとBさんがいるとして、2人が「似ている」とするのは言いがかり、こじつけなどの場合がある。

「Aさんってネコ好きだよね」

「Bさんは動物が好きだし、たぶんネコも好きで似てるよね」

 だいたいこんな流れで親近感を出したり、話題を広げるために見聞きすることがあって、私の「似ている」もそれと近いのかもしれない。

 現にこうして記事にしているわけだし。

 ただ、友人Aとの共通点を意識するようになってから、奇ノ駒たんごさんが話しているのを聞いていると、先述したとおり懐かしさを覚えるようになった。

 目の前にいる人を通して、そこにいない人のことを考えるのは失礼なのかもしれなくて、本稿を書いていいものか悩んだ。

 それでも記事にしようと思ったのは、VTuberの奇ノ駒たんごさんはもちろん、風になった友人Aという存在についても知って欲しいからだ。


 ここまで何度も「風になった」という表現を使っているけれど、つまり友人Aは亡くなっており、もうこの世にいない存在だ。

 詳しくは以前の記事に譲るとして、友人Aと私は「またね」と現世での再会を願いながらも、それが叶うことはなかった。

 ふたたび再会したとき、私は友人Aに対して最高の冗談を言えたと思っているし、面白さのあまり現世に戻ってくるのではと期待した。

 もちろん冗談である。

 あの日から私の中で何かが壊れたように思えるけれど、元から壊れていたのかもしれないし、ただのカン違いという可能性も捨てきれない。

 すくなくとも今の私はサッカーの試合に例えるなら前後半が終わり、その中で生まれたロスタイムを生きているように感じている。

 試合終了の長い笛が響くそのときまで、自分の残り時間を何に使うべきか迷いながら、お世辞にも「正しい人生」を歩んできたとはいえない。

 正しい社会生活を送るために記憶を塗り固めても、ふとした瞬間に裂け目が出来て血が噴き出す。

 Aのことを忘れようとしていたのか、あるいはもう忘れたいのか。

 分からないまま時が過ぎた去年の10月頃、「奇ノ駒たんご」というVTuberを知った。


 ツーリングで行った先の野山を歩き、野生に生えているキノコを探すのは趣味の1つであり、食材として栽培されたものにない美しさが魅力だ。

 例としてタマゴタケと思われる写真を下記に示す。

 先述した毒キノコ、ベニテングタケの仲間でありながら美味しく食べられるキノコとして有名で、2つが似ていることを活かしたマンガ作品も存在する。

 画像のタマゴタケと思われるキノコは、傘の頭頂部が赤橙色でありながら、広がるほどに鮮やかなオレンジ色へと変わっており、まるで熱を感知するサーモカメラで撮影したかのようだ。

 名前を知らなくても画像のようなものを見つけたとき、たぶん多くの人が「美しい」と声にするかもしれない。

 多くの人にとってキノコとはスーパーで売られている食材の1つであって、イメージされる色はブナシメジのグレー、マッシュルームの白か茶、よくてナメコの黄色だろうか。

 それぞれに良さがあるし低カロリーで食物繊維が豊富ということもあって、キノコを食材にした「菌活」という言葉も存在する。

 しかし売られているキノコの見た目は、正直パッとしなくて地味だ。

 野生のキノコに出会う前の私もそうしたイメージを持っていたし、子供の頃はシイタケの味が苦手だった。

 ある日、野山を散策していたときに先のタマゴタケを始めとした、美しいキノコと出会ったことで、私の興味は強く刺激された。

 そもそもキノコを雑に表現するのなら、土の中の菌糸が寄り集まって出来たカビの塊である。

 図鑑を調べたり野山を歩いて知識を深めていく中にあっても、そうした負のイメージは拭いきれず、声を大にして「キノコが好きだ!」とは言いにくかった。

 だが奇ノ駒たんごさんの配信を観始めてすぐ、次のように話していた。

キノコは植物のにあたる器官です。

 季節に合わせて鮮やかな花を咲かせる植物と、薄暗い森の中に生えるキノコが近しいものだという。

 その例えを始めて聞いたとき、私は探し求めていた答えを見つけたことで、目の前の視界が急に開けたのだった。


 元から興味のあったキノコはともかく、VTuberとは歌って踊るアイドルの一種だと思っていた。

 ある程度の知識を得た今ならそうではないと言えるけれど、歌に特化したVsingerというのも存在するし、本稿の冒頭に書いた星街すいせいさんは次のように自己紹介をしている。

彗星の如く現れたスターの原石! アイドルVTuberの星街すいせいです!

 まったく知識のないときに始めてそれを聞き、「おもろいやないの」と思ったけれど、今や街頭の大型モニターでMVが流れたりするプロのアーティストだ。

 ただ、ご本人の語るこれまでの歩みを聞く限り、YouTubeを発表の場とした1人の表現者とするのが正しいような。

 本稿を書いているnoteは、手段が違ってもwebという広大な空間において、私をふくめた表現者が集まっている点で共通している。

 星街すいせいさんも趣味として始め、いつか辞めるかもしれないと思いながら続けた結果が今であり、すべての人には「始まり」があるのだと教えてくれる。

 私が奇ノ駒たんごさんの始まりを聞いたとき、分かる、と思わず呟いた。

 それは次のようなものだ。

 『アイドルマスター シンデレラガールズ』というゲームのキャラ、ほし 輝子しょうこが「キノコ好き」というのに興味を持った。

 キャラだけでなく設定からキノコにも興味が広がっていったそうで、VTuberとして活動を始める際のヴィジュアル、つまりモデルの見た目にも影響を受けているとか。

 私も尊敬している作家さんがやっていることを試したりするし、こうして文章を書いているのも好きが高じた結果と言えなくもない。

 なにより学生時代に弓道をやりたいと思ったのは、ゲーム『ゼルダの伝説』の主人公リンクが弓を使っていたからであって、奇ノ駒たんごさんに親近感を持たないほうが難しい。


 お前は俺か、と言いたくなる奇ノ駒たんごさんに友人Aを感じるのは、ここまで書いてきた共通点によるものだろう。

 風になった友人Aを思い出すのは正直しんどさもありつつ、生きた存在として話しているのが嬉しくて、おおげさに言えばAが蘇ったかのようだ。

 どこかで聞いた話では亡くなった人のことで始めに忘れるのは、その人の声だそうな。

 VTuberの持つ魅力の源泉それは中身あるいは魂と呼ばれるものだそうで、声や話し方、考え方などと言い換えられる。

 見た目も欠かせない魅力ではあるものの、より多くを占めるのは目に見えない人間としての本質だ。

 とくにキノコに関しては顕著であり、リスナーから提示されたキノコ写真を見ても「これは〇〇というキノコです」とは断定しない。

 それは研究というか理系分野の人間として正しい姿勢であり、まちがっている可能性を消さない慎重さの表れで、なにより「きのこマイスター」としてのプロ意識によるものだろう。

 専門家が言っているのだから、という判断は便利であるのと同時に危うさがあって、私たちは流されてから「だまされた!」などと怒ったりする。

 私自身、猛暑でキノコの生育にも影響があるのでは、と質問したときに次のような返答があった。

その可能性はあるけれど断定はできない

 実際もうすこし否定に近い答えだったと思うけれど、私はそれを聞いて気分を害するどころか、むしろ好感を持った。

 リアルタイムで配信を観ているリスナーに「No」と言うのは勇気がいるだろうし、返事が気に入らないとキレ散らかすリスナーもいるとか。

 ハンドルネームに隠れても人間性が透けるのは、どこかVTuberとも共通している。

 それはともかく配信に来ている常連には当然キノコ好きも多く、どこか大学の研究室にいるような空気が楽しい。

 もちろんそればかりに偏るのではなく、雑談として言葉遊びが始まったりするから、やっぱり私は友人Aを思い出すのだった。


 ここまで『推しのVTuberが風になった友人に思えた話』と題して書いてきた。

 もし奇ノ駒たんごさんが自分に亡くなった人間を見ていると知ったら、気持ち悪さ、あるいは申し訳なさを感じるかもしれない。

 とある挑戦のために配信の頻度を落としていることに対して、「申し訳ない」と連呼するような人だし、たぶん後者な気がする。

 こちらとしては健やかに生きてくれれば嬉しく、気にしなくて大丈夫だよ、とリスナーたちが返しても変わらないので、そういう性格なのだろう。

 良くも悪くも責任感の強さに好感を持ちながら、本稿のようなものを書くのは空気が読めていないと、己のことながら呆れてしまう。

 先日には配信開始から1周年を迎えるにあたり、有志による寄せ書き企画が立ち上がったのだけれど、その投稿に際しても私は同じ姿勢だった。

 自分の言いたいことを柔らかくするのが苦手なのもありつつ、言わないでそのままになるのが怖かった。

 再会を願って「またね」と別れた友人Aと、私は二度と会うことができない。

 正確には再会できたけれど、もうあのときみたいに言葉を交わすことは叶わない。

 しかしあるとき友人Aを思い出す存在に出会った。

 私がそう思いたいだけなのだろうし、相手からすれば「うっせぇわ」とシャットアウトするのが普通かもしれない。

 そうなる可能性と天秤にかけて投稿することを選びながら、拒絶されたら書かなければよかったと後悔するだろう。

 でもたぶん伝えないで終わるより、ずっと後悔はすくないものと信じている。

 ありがとう。

 これからもキノコみたく草葉の陰から応援しています。




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