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熱くないから冷めているわけじゃない

ブルーハーツの「情熱の薔薇」がすき。自転車を漕ぎながら口ずさんで、あまりにもいい曲すぎて、思わず泣いてしまったことがあるほど。

わたしにとっての情熱って、そういうもの。心のずっと奥の方にあるもの。


少し前に、いわゆる熱血タイプの人(「熱い」人間であることを自称もしている)と話す機会があって、わたしは自分の生き方とか大事にしている考え方をいくつか伝えてみた。すると彼は、何かを感じたらしく「俺の女版だと思う!!!!」「同じものを感じる!!!!」と熱く語りだした。わたしは「違うんだよなあ~」と思い、それを少し伝えてみたけれど、いまいち届いていないようだった。

たしかにわたしは、明るく元気でフレンドリーだと言われるし、そうだと思う。好奇心旺盛だから、わたしの知らない世界を知っている人の話は(マニアックな話題や、勉強としては苦手な化学なんかも含めて)何だって面白い。年齢や性別、バックグラウンドにかかわらず、フランクに喋ることができる。ほとんど初対面の人とご飯に行って、六時間以上話が途切れなかったのも一度じゃない———もっとも、それがわたしの全てではないけれど。人間は多面的な存在で、それを忘れると困ったことが起きる気がするっていうのは、また別の機会に書こうと思う。

それで、たまに、わたしのことを「ハイパーパワフル人間」だと思っている人がいるけれど、それは勘違いだ。テンションが高いことはあるし、声がうるさいこともあるし、同世代の友人と比べたら子どもっぽいことを全力でやりたくなってしまう妙な無邪気さがあるから、そう思われるのかもしれない。(ちなみに、仲良くなり、一緒に過ごす時間が増えた友人たちは口を揃えて「明るいし元気なのは本当だけど、内側に暗い部分も持っているよね」と言う。根っから明るい人間でありたいような気もするけど、そうじゃない部分を持っているのは嫌いじゃない。人間らしくて、わたしはすきだ。)とにかく、少なくともわたしは、常に熱を発しているタイプの人間ではない。

もちろん、わたしにも情熱のようなものはある。ただ、彼のとは少し違うみたいだ。

わたしが持っている熱は、自分の内側、奥のほうでじんわり温かくなっているような気がする。基本的に、どんなに言葉を尽くしても人に伝わらないと思っているし、それでいいと思っている。わたしが特別に大好きな人たちの何人かには、この「好き」は多分一生伝わらないんだろうなあと思うし、愛読書について語るときに「何度も何度も読み返して、くたくたになったこの本は、全部のページに頬ずりできるくらい好きなの」と言っても、「変なの」と笑われるだけなのを知っている。

熱量の多い人は、内側に留められず、皮膚からエネルギーを発している。熱気をまとっていて、言葉も態度も(いやな言い方になってしまうけれど)「暑苦しい」。自分だけじゃもったいない、みんなで盛り上がろう!と、伝熱させようとする。———この熱を偽物だと言いたいわけじゃない。わたしの持つ熱とは、形が違うだけ。ただ、勝手に「同じ」だと誤解してほしくないなあと思う。

本当は違うけれど、なんとなく「うん」と頷かなければならない状況は、よくある。わざわざ遮って、会話の流れを悪くするほど重要でないと感じたり、この人には言ってもわからないだろうなあと諦めたりするときだ。わかりあえないということをわかってくれる人は、あまりいない。そのことが、普段はよくても、心が敏感になっているときには、しんどかったりする。

もしも熱の違いを説明して、彼が「同じ空気を感じたのに、案外冷めてる人間だったのかあ」と思うのなら、その誤解も解いておきたい。外側に熱を帯びていないことは、冷めていることと同義ではない。人によっては、内側でもっともっと熱く燃えているのかもしれない。どちらがいいとか、どちらのほうが熱いとかは言えない。ただ純粋に、違うのよって伝えたいだけなのだ。


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