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「お風呂が湧きます」の哲学:未来へのメッセージ

小さい頃からお風呂掃除はわたしの担当。前に住んでいた家では手動でお湯を溜めていたから、時々お風呂のことをすっかり忘れていて、湯船からお湯が溢れ出てしまったりもした。そんな小さなことでも「お湯がもったいないなあ」とものすごく悲しくなってしまった。懐かしい。

今の家では、ボタン一つで勝手にお湯を溜めてくれる。今はきっとそういうお家が多いと思う。すっかり慣れてしまっていたけれど、昨日は家に帰ってから大忙しで―――洗濯物を片づけて、お夕食を作って、掃除をして―――バタバタしていたから、なんだか有難いなと思った。湯船の掃除をして栓だけしてしまえば、あとは勝手にやってくれるんですもの!!超便利!

お湯が溜まると音楽が鳴ってお知らせしてくれる。その前に、なぜか予告もしてくれる。

「もうすぐ、お風呂が沸きます」

いつもの声に「あーはいはい」と普段なら気にも留めない。でも、昨日はなぜか違和感を感じた。「お風呂が沸きます」???ん。何かがおかしい。なんだろう。

―――うちのお風呂、別に沸かしてなくない?

お風呂には沸かすっていう動詞が適切なだけかしら。沸かすって他にはいつ使うんだっけ。お湯は沸くもの……だよね。そもそもなんでお風呂は沸くものなんだっけ。ああ、そうか。昔は水を入れて、薪なんかを燃やしで本当にお風呂を沸かしていたんだよね。わたしも一度だけ土管風呂に入ったことがあるなあ。

まてよ。そうなると、我が家のお風呂はやっぱり沸かしていないんじゃないかな。だって、最初から温かいお湯を適量まで溜めているだけだもの。どうして「お湯が溜まりました」じゃあダメなんだろう。なぜ「お風呂が沸きます」を採用したのかしら。

昨日の「もうすぐ、お風呂が沸きます」はキッチンで聞いた。親子丼の玉ねぎと鶏肉が煮えるのを待ちながら、わたしはそんなことをつらつらと考えていた。―――まるで、お風呂から始まる哲学ね、なんちって。

考えるきっかけなんて、日常生活に死ぬほど転がってる。道端にいるアリを眺めて生きる意味について考えを巡らせたり、『千と千尋の神隠し』で主人公の両親が豚になるシーンを思い返しながらクローン人間について考えたり、寒すぎる駅から家までのたった三分の道のりで愛の定義に悩んだりする。多分、わたしだけじゃない。

哲学ってなんか、よくわかんないよ。難しいし、自分にはあんまり関係ない興味ないかも。

よくそう言われる。わたしも別に哲学を専攻しているわけではないし、詳しい人からしたら本当に無知な人間なんだと思う。なんとか主義とか言われると、ちょっとわからなかったりもする。

でも、わたしの世界の見方で言わせてもらえば、人間みんな哲学者だ。だって、考えるじゃん。明日は何を着ようかなとか、お昼はどこに行こうかなとか、何を食べようかなとか。どの道を通って帰ろうかなとか、あの人にいつ会えるかなとか。そういう普段考えていることから、さらにもう一歩、「どうしてわたしは服を選ぶんだろう」「どうしてこの食べ物が好きなんだろう」「寄り道をした場合としない場合で何が変わるんだろう」とか気になりだしたら、それはもう完全に哲学しているとわたしは思う。ほら、ね、そんな難しくないでしょう?

問いを持つこと。すぐには出ない答えについて思いを巡らすこと。答えは変わるかもしれないけれど、悩む過程を踏むこと。これがわたしの思う”哲学”ってやつ。

昨日はお風呂から始まった、わたしの疑問。小さな問い。

―――どうして「お風呂が沸きます」なんだろう。

この機械を作った人だって、今のお風呂が沸かしているものではないことは多分承知だ。きっとあえて「お湯が溜まります」じゃなくて「お風呂が沸きます」にしたに違いない(わたしと独断と偏見による見解)。

……昔の名残を、どこかに残したかったのかしら。

これからきっと、沸かすお風呂を知らない人がますます増えるだろう。お風呂は、ボタンをぽちっと押すと勝手にお湯が溜まる機械だという認識が当たり前になるのかもしれない。

そんな未来、もしくは現在のある日、ある家で、小さな子が「ねえ、どうしてお風呂は沸かすっていうの?」とお母さんに尋ねるかもしれない。そうしたら、優しいお母さんは「どうしてだと思う?沸かすって言葉、知ってる?」とすぐには答えを教えず、子どもに問い直すかもしれない。小さな子はそれについて、一晩中考えてしまうかもしれない。お風呂は沸くものなのか、と。

「もうすぐ、お風呂が沸きます」

これは、未来の小さな哲学者のための問いかけなのかもしれない。

―――なんて、わたしの考えすぎかしら。


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