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痛みとともに思い出す。

現在僕は、中国地方にある自動車工場で働いている。
いわゆる期間工というやつだ。
特に給料が良いというわけではないが、一定期間の契約のもと、夜勤や休日出勤などの手当てで稼ぐことができるし、寮費が無料だったり入社祝い金や契約の満了金だったりというオマケが付いてくる。

数年前に実家の事情から某カスタマーセンターの仕事を辞め、それから比較的短期で稼げる期間工の仕事を二社ほど経験した。そうして「もう期間工は嫌だ」と思っていたのに、(もう三つ目にも関わらず)思わず釣り針の疑似餌に食い付いた。

「もう嫌だ」の理由は色々ある。
重労働だし不規則な生活を強いられるのも勿論だが、工場の仕事は僕には合わないと感じる。とても人間的な作業とは思えず詰まらなくて堪らないし、自分で考えながら手順を決めていくのは好きだが、決められた物事の手順を覚えるのは苦手だ。現場における仕事の指導もあまり上手くない人が多いと感じる。ある作業における目的とそれを適えるための手段が混同されていたり、目的抜きで手段だけを伝えたりで、こちらはよく分からぬままなんとなくの仕事をしている。工場は夏は暑いし冬は寒いしで、交代勤務(現在は2交代。3交代勤務のところもあった)で、なおかつ寮生活では自炊が禁止されているので体調の管理も難しい。
各社おかしなルールや理不尽な振る舞い(ある工場では、休日出勤が半ば強制化しているところもあった)が横行しているが、日本の自動車会社というのはおそらくどこでも、高度経済成長期からある古い体質や習慣をなかなか変えられていないのだろう。
当然僕ら期間工の生活は向上しない。
これまで住んだ三つの寮はおしなべて古かったが、現在住んでいるところは特に手入れが行き届いていないように見える。風呂場は広いがシャワーホースの水垢が目立ち、使用中止のトイレや水の出ない手洗い場、同じく水が出ない冷水機はずっと使用出来ないままだ。

今居るところは現在一人部屋だが、かつては四人部屋だったそうで、高度経済成長期に四人部屋で働いてくれた先輩方が寮の建築費や様々をまかなってくれたということなのだろう。
しかし現在の不景気では、寮の設備を新しくしたり改装や建て替えをしたりというところまではとても予算を回せないに違いない。

とはいえ、嫌々ながらも期間工を選ばざるを得ないのはこれまでの人生において大体は計画的ではなく、やりたい事しかやらなかったという行動の結果なのだろう。だからこのような環境で働かざるを得ないのは仕方ないとも思っている。
だから、言いたいことはまだまだあるが、これ以上色々と言うのは憚られる。
とにかく、人間は居るべきところに居ないと腐るものだ。

書こうと思ったのは、ある夜勤の時にふと思い出し、色々と考えさせられた痛みの話だ。
口からは発せずとも、重労働に耐えられず身体は「痛い痛い」と騒ぎ出す。その多くは古傷だ。痛みを感じると、昔悪くしたところが、それに纏わる様々な思い出と共に脳裏に蘇ってくる。
例えば左肘だ。
これはトレーニングの一環としてやっていたウェイトトレーニングのせいだ。あれは最初のメキシコから帰国してからのことだから、かれこれ20年前か。独学で、知っていながらもセオリーを無視してトレーニングをしていて痛めてしまった。この肘のせいで、腕立て伏せを10回以上やれるようになったのはここ数年だ。

腰も痛い。
これも最初に痛めたのは、やはり左肘と同時期だった。あの頃はあまり寝ずにバイトとトレーニングに励み、1週間動けない程のギックリ腰になった。この腰はのちに30歳でボクサーをやめた原因の一つだ。ドイツに渡ってから腰の痛みが強くなってきたので、腰を支点にして上半身を動かす、ボディーワークと呼ばれディフェンスを封印した。さらに最後の試合の前には走ることも辛くなり、アパートの階段を上り下りしてランニングの代わりにしたものの、結局は階段の上り下りでさえ辛くなって出来なくなった。
そういえば、階段を上り下りする僕に気付き、アパートの階下に住む研究者夫妻の奥様が僕への応援としてちらし寿司を作ってくれたことがあった。

ドイツの前にはタイの首都バンコクに1年8ヶ月程滞在して7戦したが、その間にオーバーワークで入院して以降アスリートと言えるコンディションを維持することが難しくなっていたこともあり、ドイツでは三試合を行い全て敗れた。ボクシング生活は非常に苦しかったが、アパートの仲間たちやジムメイトのお陰で続けられた。

僕は眼も悪い。今回の入社時の視力検査では左0.1右0.4だった(近眼で老眼のせいで眼鏡もかけていない)。眼球振盪もあるので、スポーツ科学でいう動体視力や瞬間視の類もとても低い。
眼はドイツでの二戦目で傷め、決定的に悪くした。
4ラウンドの試合だったのでそれ程強い選手は出てこないだろうと思っていたのだが、試合から随分と経って相手がドイツの国内タイトル保持者で、なおかつ階級上の選手だということを知った。
通りで僕とはパワーが違った筈だ。
腕にしっかりと力を入れてブロックをしたにも関わらず、そのブロックの上から殴られてリングの中央からロープまで吹っ飛ばされた。
それでも、この試合の前にはよくスパーリングも出来たし、コンディションを崩すこともなく、良い試合が出来たと思っている。
吹っ飛ばされたロープ際で「来い!」と叫んで、ノソリと出てきた相手に両腕で覆われた顔面を狙って4発打ち込んで意識を上に集中させておいてからの左ボディーは綺麗に入って相手を下がらせることが出来たし、吹き飛ばされる度に倒しに掛かってくる相手にカウンターを当てることが出来た。
試合中の音の感覚とは不思議で、音が選別されて聞こえてくる。必要の無い音とそうでない音と。
観客が盛り上がっているのが分かったのはこの試合だけだった。

その後のもう一試合に惨敗してそれが最後の試合となったのだが、その際の準備期間は最低だった。上に書いた腰痛エピソードの階段もそうだが、眼を傷めたせいで相手の真っ直ぐのパンチが見えなくなり、無反応で正面から食うようにになった。
良いようにやられるスパーリングが増え、そのうち顔面に軽いジャブを食っただけで脳から腰まで脊髄に電流のような鋭い痛みが走るようになった。

おそらく多くの人が、ボクサーというと「パンンチドランカー」という言葉を連想的に思い浮かべるのではないか。
恐らく僕は、脳機能の幾つかの点で本来あるべきレベルにないということがあるだろうと思う。
将来はどうなるのかは分からない。(勿論これはアルコールやタバコなどの弊害もあるのだろうが)パンチドランカー症状が引退後に出ることも少なくないようだ。
有名なとことでは、フロイドメイウェザーJr.の叔父である2階級制覇の名チャンピオン、ロジャーメイウェザーの例がある。彼は長い現役時代からトレーナーとしても活動していたようで、引退後も甥のトレーナーを務めるなどしていたが、数年前からパンンチドランカー症状と思われる酷い記憶障害を患っているそうだ(ちなみに僕のプロデビュー戦はラスベガスの小さなカジノで、メインはロジャーだった)。
不安は少なくない。

17年前、バンコクでの最後の試合は、僕の生涯で最も印象深い夜となった。
試合会場を訪れた際、観光客に声をかける旅行会社のタイ人に声を掛けられた。僕が返す前に、彼の先輩らしきタイ人が「彼は選手だ」と言って僕に「今日は試合かい?」と聞いてきてそうだと答えると、「チョークディー(グッドラックのような意味らしい)」と言ってくれた。
そして、試合ではとても目の良い相手に序盤アッパーのカウンターを好きに合わされたが、中盤から打ちまくって判定勝ちを収めることが出来た。サミング(眼に親指を突き立てる反則)やローブローの連発(勿論タイ人のレフェリーは反則を取らない)に苦しみ、顔はボコボコだったが、その顔も誇らしかった。
客席の見ず知らずのタイ人が「リンタロ〜!」とタイ人独特の訛りのある僕の名前を叫んだ。
日本人の観光客の数組に「写真を撮ってください!」とせがまれた。
卒業旅行だという学生グループに「感動しました!」と言われ、夫婦で来ていたご主人に「どこのジム? 帝拳?」と聞かれたので「いや、日本のジムには所属してなくて」と答えて自分のキャリアを簡単に説明すると、興奮気味に「根性!根性!」と意味不明に叫んだものだった。
それから、いつも応援に来てくれてた留学生の女の子(彼女も日本人)は突っ伏して泣いていた。
「倫太郎さん負けるんじゃないかと思って」序盤から泣いていたらしい。
彼女は、大学卒業が近く、卒論や学友との集まりでとても忙しくしていたそうで、興行のファイナル(メインではない)として行われた僕の試合が行われる直前に会場に着いたそうだ。
入場の際に「倫太郎さ〜ん」と声を掛けられて、ふと肩の力が抜けるのが分かった。
その夜、彼女たちと会場の近くのカオサン通りのカフェでお茶を飲んだ。
スモッグで汚れたバンコクの夜には星など殆ど見えない筈だが、その夜のことは満点の星空と共に思い出す(ちなみにその後ネカフェに寄って友人達にメールを送ったのだが、そこで一緒に写真を撮った大学生の卒業旅行のグループと鉢合わせした)。

事あるごとに、あの夜、あのバンコクでの最高の時でボクシングはやめておけば良かったと思う。やめていれば、眼を傷めることも、引退試合のまえの無用なダメージも食うことは無かっただろう。
とはいえ、そう考える度に「やはり」と思うのだ。

ベルリンは、ボクシングをやめても住みたいと思った唯一の街だ。
ボクシングキャリアの最後の場所となった地でもあるが、他にも様々な捨てがたい思い出がある。

無茶もして、怪我や何かと後悔することは多くある。賢い生き方だとはとても言えない。
今やってる期間工の仕事だって、賢い人はやらない(もしくは一度で「長期で考えればこれは損するな」と悟る)だろう。しかしそれでも、その時その時でそれなりの意志をもって決断したのだ。

そう考えると、ああ、やはりこれは、賢くはないが、自分らしい生き方なんだな、とそう思う。

ある夜勤の日、僕は暑さと疲れのせいで朦朧としながら、そう考えてニンマリとした。
まあでも、今回こそ「最後の期間工」としたい。





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