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小説:ナースの卯月に視えるもの 3

3 笹山ささやまさんと青年
 
 本格的に梅雨入りしたらしく、雨の日が続いている。窓に当たる雨音は激しく、風も強い。廊下から個室の笹山さんの部屋を覗くと、笹山さんは車椅子に座ってSTの津国つくにさんと向かい合っていた。後ろに笹山さんの娘さんと、スーツ姿の若い青年が立っている。青年は初めて見る人だ。お孫さんだろうか。私は一度ナースステーションに戻って面会者用の丸椅子を二つ持って、笹山さんの個室へいく。
「こんにちは。雨すごいですね」
 声をかけると、娘さんが私を見た。
「ねえ、すごい雨。梅雨って、しとしと降るイメージですけどね、今日は台風みたい」
「ほんと、激しいですよね」
 娘さんと話をしながら、私は面会者用の丸椅子を二つ置く。娘さんは「すいません」と言って座った。青年のほうを見るが、青年は動かない。娘さんが私を少し見てから、そこに置かれた椅子を見て、また私を見た。妙な沈黙が生まれる。私は、小首をかしげながらじっと青年を見る。そして、思わずハッと小さく息を吸う。スーツ姿の若い青年は、薄く透けていた。一瞬見分けがつかなかったが、青年は笹山さんの「思い残し」だった。
 私は、驚いていることを悟られないよう、きわめて自然を装って、面会者用の丸椅子に自分で座った。あたかも「もともと自分で座る用に持ってきました」という顔をしたが、看護師が患者さんの部屋で面会者用の椅子に座ることなどほとんどないから、奇妙に見えたと思う。でも、あくまでも「自分のための椅子です」という顔をして、STの様子を見に来たというていを装った。
 STとは言語聴覚療法のことで、何かしらの原因でしゃべれなくなったり、食事が飲みこめなくなったりした人のリハビリを行う専門職だ。笹山さんはクモ膜下出血の後遺症で麻痺があり、食事はうまく飲みこめず、うまくしゃべることもできない。練習をしている最中だ。
「津国さん、笹山さんいかがですか?」
 私が面会者用の椅子に座るから、津国さんも変な顔をしていたけれど、素知らぬふりをする。
「少しずつ練習できていますよ」
 津国さんは、白い歯を見せながら言った。行く病棟ごとにお目当ての看護師を作り遊んでいるらしいと噂で聞く津国さんの、紺色のスクラブから伸びる腕がたくましい。私はあまり好みの男性じゃないのだけれど、同僚の中には津国さんと食事に行った、と喜んでいる人もいる。プライベートはどうでもいい。仕事をちゃんとやってくれれば私には関係ない。
 笹山さんは舌の運動の練習をしていた。音を発することはできるが、うまく言葉にならないようだ。口唇の筋肉も麻痺があるから、唾液が垂れて口のまわりが汚れている。STのリハビリが終わったらホットタオルを持ってこよう。
「じゃあ、よろしくお願いします」と津国さんに言ってから、娘さんに会釈をして、私は自分が座っていた丸椅子を持って部屋を出た。
 ナースステーションに戻って笹山さんのカルテを見る。

 笹山トヨ。87歳。女。
【現病歴】
埼玉県で独居。3月3日、玄関で倒れているところを近所の女性が発見し、救急搬送。クモ膜下出血を起こしており、同日、開頭による脳動脈瘤クリッピング術施行。BRS麻痺レベル、手指Ⅱ、上肢Ⅱ、下肢Ⅱ。リハビリ目的にて、家族の家に近い長期療養型病棟のある当院へ転院。
【既往歴】
高血圧
脂質異常症
変形性膝関節症
 
 命は助かったものの、もともと変形性膝関節症があったうえにクモ膜下出血後の麻痺が残り、一人暮らしはできなくなった。そして、娘さんが面会に来られるよう、娘一家の家の近くの当院に転院してきたのがつい先日だ。夫は十年以上前に他界。娘家族は、夫と娘。
 お孫さんは女の子か。じゃあ、あの「思い残し」の青年は、誰だろう。
 STの津国さんがナースステーションに戻ってくる。
「お疲れ様です」
 声をかけると、津国さんは少し難しい顔をした。
「笹山さんですけど、発声はだいぶ良くなっていますが、嚥下が難しいですね。今の状態でしたら、間違いなく誤嚥すると思います」
「そうですか」
「今は鼻からTFいってますけど、今後のことも考えると胃ろうの検討もしたほうがいいかもしれません」
 胃ろうとは、お腹に穴をあけてチューブを入れ、直接胃にTF、つまり栄養剤を注入するためのものだ。
「わかりました。先生に聞いておきます」
「はい。近いうちカンファレンスしたほうがいいですね」
「よろしくお願いします」
 津国さんは険しい顔でナースステーションを出ていった。プライベートは遊び人だとしても、患者さんのことはしっかり考えているようだ。
 嚥下障害のある人は、口から食事がとれないから鼻からチューブを入れて栄養剤を流すことが多い。嚥下の機能が回復してくる見込みがあれば、そのまま鼻からのチューブで過ごしてもらい、口から食べられるようになったら少しずつ経口摂取に以降していける。しかし、嚥下障害がひどく今後経口摂取が見込めない場合、胃ろうを造設するほうが誤嚥性肺炎などの合併症のリスクは減る。ご家族も交えて相談しなければならないだろう。私は、担当医に確認することとして、自分のノートにメモをした。
 ホットタオルを持って笹山さんの部屋へ行く。
「お疲れ様です」
 娘さんが振り向く。
「看護師さん、お母さんは、しゃべれたり、食べれたり、するようになりますかね」
 私は「うーん」と少し時間をとってから「先生からは何と聞いていますか?」と聞く。看護師はインフォームドコンセントにおいて医師より先に患者や家族に情報を伝えることはできない。
「先生は、難しいかもしれないって言っていました。STの津国さん、とても良くしてくださいますが、うまくいくのか心配です」
 私は「お顔ふきますよ」と声をかけてから笹山さんの顔をふく。
「そうですね。今後のこと相談できるように、先生と面談予定しましょうかね」
 どちらにせよ、胃ろうの話もしなければならない。家族が不安を持っているなら、面談は早いほうがいい。患者のどんな情報でも、たとえそれが残酷な結論であっても、医療者は家族に伝える責任があるのだ。
「お母さん、何か言いたいことがあるみたいなんです。でも、うまく言葉にならなくて」
「そうなんですか?」
 私が笹山さんを見ると、笹山さんは一生懸命に口を動かし音を発した。
「やああうぅ、いういえ」
「これです。この言葉を何回も言うんです。でも聞き取れなくて」
 私にも、何と言ったのかわからなかった。筆談をしようにも、笹山さんはペンを握ることも難しい。
「聞き取れないですね」
「そうなんです」
「リハビリが進めばもう少し聞き取れるかもしれないです。私たちも、なるべく笹山さんの言いたいことをくみ取れるようにしますね」
「よろしくお願いします」
 娘さんは少し疲れているように見えた。笹山さんの「思い残し」と思われる青年は、じっとうつむいたまま立っていた。
 
「卯月さん、飲みに行きませんか~?」
 後輩の山吹が更衣室で声をかけてきた。
「あ、いいよ。珍しいじゃん、どうしたの?」
「来月の勉強会の資料作り終わったんで、自分にお疲れさま会です」
「ああ、それはお疲れ」
 大きな病院の看護師は、病棟勤務の仕事以外にも、他病棟の看護師と合同で勉強会などを行うことがある。山吹はまだ二年目の若手だから、勉強会の資料を作ることで本人に学ばせよう、という先輩たちの考えなのだろう。
「何の勉強会なの?」
「廃用性症候群とその予防です」
「それは大事」
 着替えを終えて、山吹と一緒に大雨の中、駅方面へ向かうバスに乗った。
 平日の居酒屋はいている。
「今日、津国さん来てましたね~」
 何杯目かのレモンサワーを飲みながら山吹が嬉しそうに言う。
「え? 山吹も津国さん、好きなタイプなの?」
「かっこいいじゃないですか~」
「そーお?」
 私はフライドポテトをつまみながら答える。
「私、ああいう、ちょっとサーファーっぽい人、好きなんですよ~」
「サーファーっぽいか?」
「はい~」
「遊んでるって噂聞くから、気を付けてね」
「津国さんになら遊ばれてもいいです~」
 私は肩をすくめ、薄まったハイボールを飲む。後輩と楽しくお酒が飲めるのは良いことだ。健全だ、と自分で思う。ほかの人には視えない「思い残し」を視てしまうことはあるけれど、大丈夫、私は健全だ。
「ねえ、山吹。『やああうぅ、いういえ』って、何て聞こえる?」
「え、なんですか?」
「やああうぅ、いういえ」
「んー……柔らかく、キスして?」
「はあ? なんでそうなるの」
 ヘラヘラしながら山吹は「わかりません~」と笑った。
「で、なんなんですか、それ。呪文みたいですけど」
「ああ、個室のSさんなんだけど、何か言いたいことがあるみたいなんだよね。でも、うまく発音できなくて聞き取れないの」
「それが、『やああうぅ、いういえ』ですか?」
「そう。そんな風に聞こえるの」
 山吹はテーブルに肘をついて「うーん」といった。
「母音は当たっているんでしょうね。やああうん、いういえ。屋形船、死守して?」
「大喜利じゃないんだから。てか、屋形船死守って何?」
 私は思わず笑ってしまう。
「じゃあ~、ヤガラくん、ミスして?」
「ヤガラくんって何?」
「そんな魚いませんでしたっけ?」
「わかんない。よく思いつくね」
「アルコールで頭の回転が良くなるタイプです~」
 意味のわからないことを言って山吹はレモンサワーを飲む。
「最後〇〇して、だったら、やっぱり何かしてほしいことがあるのかなあ」
 笹山さんは、何かしてほしいことがあるのだろうか。五十音の表を作って、順に指していく方法もあるから、試してみてもいいかな、と考えつく。
「やっぱり、キスして、じゃないですかぁ?」
「バカねえ~」
 酔っぱらっている山吹に水を勧め、私は会計のために店員を呼んだ。
 
 翌日の日勤で山吹はひどい顔をしていた。いつもかわいらしくナチュラルメイクをしているが、今日はその元気もなかったようだ。
「卯月さん、二日酔いないんですか?」
 目の下は黒ずんでいて、生気がない。
「そんなに飲んでないもん」
「はあ。私も卯月さんみたいに自己管理できる大人になりたいです~」
 ああ頭痛い、と言いながらもしっかり仕事はできているから、えらいなあと思う。私が二年目のときは、どんなだっただろう。二日酔いも気にせず飲んでいただろうか。山吹とは三年しか違わないのに、二年目から五年目になるまでにいろいろあったなあ、と考える。思い返すと、静かに胸の痛むここ数年。
「卯月さん、さっきから廊下に不審なイケメンがいるんですけど~」
 山吹が声をかけてくる。
「不審なイケメン?」
「はい。イケメンなんですけど、ナースステーションのまわりを行ったり来たりして、不審者なんです。声かけてください」
「なんで私が?」
「私、二日酔いでブサイクなんでイケメンには会えません~」
 はいはい、と山吹のことをあしらって、ナースステーション外の廊下へ出てみる。たしかに、スーツ姿の若い男がいた。こちらを見ながら、うろうろと逡巡しているように見える。私はその姿に見覚えがあった。笹山さんの部屋で視た「思い残し」だ。
「何かご用ですか?」
 私は声をかける。青年の正体を自分で探さずに済んだ。「思い残し」のほうから自分で来てくれることは少ない。
「あ、あの……笹山さんって人、入院してますか?」
 山吹の言ったとおり、顔立ちが整っている。二十歳前後の若い男。
「ご面会ですか?」
「あ、はい。えっと、そうなんですけど」
 患者の病状を悪化させる特別な理由があれば面会制限の指示が出る場合もあるが、基本的には誰でも面会はできる。笹山さんに面会制限はない。
「こちらに記入していただけますか?」
 私は面会の受付表を青年に見せる。青年は何かに怯えるようにして、まわりをきょろきょろと見渡しながらゆっくりナースステーションに近づいてきた。たしかに、不審だ。それでも、笹山さんに会いたいのか、青年は面会の受付表に記入をし始めた。
 名前のところには「山田やまだ」、続柄のところはしばらく悩んでから「友人」と書かれた。この若い男が、笹山さんの友人。笹山さんの「思い残し」。
「どうぞ」
 私は山田と名乗る男を笹山さんの病室へ案内しようとする。しかし、青年は動かなかった。
「あの……笹山さんって、どうなっちゃったんですか?」
「はい?」
「埼玉の自宅に行ったら、いなくて。近所の人が、救急車で運ばれたって教えてくれて。その病院に行ったらもういなくて。近所の人にここの病院教えてもらったんです。あの……何があったんですか?」
 青年は、埼玉県から来たらしい。笹山さんの知人であることは本当のようだ。
「私からは病状の説明などはできかねるのですが……」
「そうですか……」
「ご面会されますか?」
 山田と名乗る男は少し考えてから「はい」と言って足を前に出した。
 笹山さんはベッドの上に横になって、うっすらと目を開けていた。
「笹山さん、ご面会ですよ」
 声をかけると、静かにこちらを見る。その目が青年をとらえた瞬間、笹山さんは大きく目を見開いた。
「やああうん、やああうん」
「え?」
「やああうん」
 何度も伝えようとしていた言葉を笹山さんが繰り返す。
 やああうん……山田くん?
「山田くん?」
 私が言うと、笹山さんは嬉しそうに動きにくい手を一生懸命動かした。
「山田くんって言いたかったんですか?」
 私の問に笹山さんは何度もうなずく。
「山田くんに言いたいことがある?」
 笹山さんはうなずく。
「あなたに言いたいことがあるようです」
「俺に……」
 山田くんは笹山さんのベッドに近づく。
「笹山さん、大丈夫なんすか? 心配して、面会に来たんです。あの、近所の人にここの病院のこと聞いて……」
「やああうん、いういえ」
 笹山さんが繰り返し訴えていたことをまた口にする。
「なんて言ってるんですか?」
 山田くんが私を振り向く。
「前半は『山田くん』だと思います」
 笹山さんはうなずく。
「い、う、い、え。い、しゅ、し、え」
 笹山さんはゆっくり一文字ずつ一生懸命発声する。私も顔を近づけ、耳をすませ、なんとか聞き取ろうとする。山田くんも真剣な顔だ。
「い、しゅ、し、て。じ、しゅ、し、て」
 じしゅして。
「じしゅして?」
 私が聞こえた通りの言葉をぼそりとつぶやくと、笹山さんは動きにくい腕を上にあげて私を指した。
「じしゅして?」
 笹山さんがうなずく。
「山田くん、自首して」
 私の言葉に、山田くんは息をのんだ。そして「ごめんなさい」と言って、突然泣き出した。私は、泣き崩れる若い男を前に、どうしたらいいかわからなかった。笹山さんは、うんうんとうなずきながら、穏やかな、満足そうな顔をしていた。
 
 笹山さんがオレオレ詐欺に引っかかっていたことが、あとになってわかった。山田と名乗る男が泣き崩れている部屋に笹山さんの娘さんが面会にきて、山田くんは何もかもを打ち明けた。山田くんは、笹山さんの自宅へ行って現金を受け取る係だったそうだ。昔の友達に「割りの良いバイトがある」と声をかけられ、初めてやった詐欺の相手が、笹山さんだった。一人暮らしをしている笹山さんを見ていたら、自分の祖母を思い出し、罪悪感が芽生えたそうだ。現金は奪ってしまった。その罪悪感が消えない。その後も、何度か笹山さんの家を訪れて、草むしりを手伝ったり、電球を交換したり、何かと手伝いをすることで、自分の罪悪感を紛らわせていたらしい。しかし、あるとき家に行ったら誰もおらず、笹山さんは救急車で運ばれたと知った。いてもたってもいられなかったが、どんな顔をして会えばいいかわからない。考えているうちに何ヵ月もたち、心配のほうが大きくなった今、ようやく顔を見に来たそうだ。
 山田くん、自首して。笹山さんは、気付いたのだろう。詐欺だったことに。それでも、若い青年が自分のためにいろいろと手伝ってくれることが嬉しかった。そうやって親しくなっていくうちに、青年の踏み外した道を元に戻してあげたかった。おそらく、そういうことなのだろう。うまくしゃべれなくなった今、どうしても伝えたかったのは、青年への優しさだったのだ。
 
「それで、山田くんは警察に行ったらしいよ。まあ、山田は偽名なんだろうけど」
 私は家に帰ってから、ソファでくつろいでいる千波に話しかける。千波は、煙草の煙をふーっと吐いて、微笑む。
「ちゃんと更生するといいよね」
 詐欺は犯罪だ。それは当たり前の事実だ。でも、心から反省して、悔い改めるなら、まっとうな道に戻ることはできるのではないかと思う。組織犯罪を抜け出すのは難しいと聞く。でも、少なくとも、わざわざ埼玉から謝りに来られた山田くんなら、きっと苦難の道も超えていくだろう。淡い期待であっても、そういうことを信じられる日があってもいいんじゃないかな、と思う。それが笹山さんの強い願いなら、なおさらだ。
 雨はあいかわらず激しく降っている。
 

最終話→
卯月とルームメイトの千波

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