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幸せな思い出は、すぐ忘れるのに、なんで辛い思い出は消えないんだよ

私は、楽しかったことよりも、辛かったことや悲しかったことをたくさん覚えている。頑張ったことよりも、自分が達成できなくて悔しかった思い出を覚えている。「あの時もっとこうしておけばよかった。」って

なんでかわかんないけど、すごく鮮明に覚えている思い出は、ポジティブな思い出より、ネガティブな思い出。

良かったこと、嬉しかったことをずっと覚えていたいですよね。それなのになぜか嫌なことの方を強く記憶しているような気がする。

なんで幸せな思い出は、どんな思い出だっなんで辛い思い出は消えないんだろう。


高揚感や達成感はあまりはっきり覚えていないのに、鮮明に覚えているのは「やりきれなかった後悔」だけは覚えてる

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「あの時本当はこうしていればよかった。」
「もう少し頑張れたらわたしの今は違ったかもしれない。」

後悔は覚えてる。悔しかった思い出はいつでも覚えてる。あの時の気持ちはより鮮明に覚えている。わたしの中学生のころの後悔はある友達にもっとありがとうという気持ちを伝えられなかったこと。

ご存知のかたもいると思うが、わたしは小中学校の時結構いじめられていた。それについて知りたい方はそのことについて記事を書いているので読んでほしい。

でもそんないじめられているわたしにも優しく接してくれる友人がいた。それは「きよちゃん」彼女は最初はわたしと同じ部活に入っていた。彼女はいつも明るく、とても魅力的な子だった。少しやんちゃな部分もあり、中学校の途中で部活をやめてしまったが、その後もいじめられているわたしのことを軽蔑せず普通に接してくれた。

彼女はヤンキーのグループ。わたしはみんなからいじめられっこ。だけど、彼女は話しかけてくれる。一緒に時間を楽しんでくれる。一緒に遊ぶほど仲良いとは言えない。だけど、わたしのことを「のんちゃん!」ってニックネームで呼んでくれる。そんな魅力的な彼女が羨ましく、尊敬してた。

だけど、彼女は中学3年の時、15歳の時亡くなった。交通事故で。

わたしは悲しかった。

だけどその話を聞いた時涙が出なかった。

そんな彼女がもうわたしに「のんちゃん勉強を教えて〜」って言ってくれることがないと。わたしに「今日ものんちゃん可愛い〜〜!」って抱きついてくれることもないと。

ただ彼女とすごく親しいわけじゃない。だけど彼女の笑顔があるからこそわたしの人生はあったようなものだと思ってた。

彼女はわたしの憧れだった。だけど、そんなきよちゃんともう会えないことを受け入れられなくて、涙が出なかった。

その数日後、お通夜が開かれるという話が流れてきた。ただ、詳細は広くは公開されなかった。だから、お通夜にもお葬式にも行けなかった。

本当は情報が広く公開されなかったからじゃない。いじめられ続けたわたしにとって、

「お通夜の場所を教えてほしい。」と。
「お葬式に行きたい。」と。

きよちゃんのお友達のヤンキーに声をかける勇気が出なかった。

彼女にお別れをいうことも、「いつもありがとう」ということもできなかった。わたしがいじめられっ子という自分の殻を破れず、勇気もでなかった。

10年たった今でも彼女の優しさを思い出す。そして彼女に会う勇気が出ない自分への後悔を強く思い出す。


なんで、あのときのわたしは勇気がなかった人間なんだろう。と。


私が中学校のころに所属していた部活動は、強豪だった。毎年3回、マーチング、吹奏楽、アンサンブル、などにいろんな大会に出場しどれも全国大会に進出は必ずするような学校だった。

今考えると、練習時間は長く厳しい環境だったと思う。朝6時から朝練、夏休みは3日あればいい方、合宿では朝6時に起床25時に練習が終わるのが普通だった。遠征は月1で必ずあったし、とてもハードな環境だったと思う。

そして毎日真剣によりよい「音」を目指して頑張った。

だからこそ、全国大会の特別な機会の、高揚感や、緊張感、雰囲気は当時は途轍もないものだったと日記に書いたほどだった。。

でも、今はそのときの思い出をうまく思い出せない。そのとき「頑張った」と言葉ではいうことはできるのだけど、実際そんな覚えていない。


自分の人生を振りかえったとき、一生懸命頑張った。と素直にと言えるほどの思い出なのに、正直、そんなに、覚えていない。

それより、私が思い出すのが「やりきれなかった後悔」だけ。

なぜあのときに勇気が出なかったのだろうか。と。



幸せな記憶がない訳じゃない。ただ”鮮明に”思い出すのが、辛い思い出とか、悲しい感情の思い出が多いよ

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楽しい思い出って、写真にするから振り返ることができるけど、正直そんな思い出さない。だから、アルバムとか大好きなんだけど。

反対に自分にとって嫌な思い出は忘れない。何度も思い出してしまう。

それは別に私だけじゃないと思う。だっていやな感情になった時は、何度もみんなクヨクヨと悩んだり、反省したり、後悔したりしてしまう物だから。

自分の中で何度も何度も考えることで、脳に強く刻み込まれてしまう。こうやって覚えている嫌な思い出も、記憶の一部。勉強をしていた時と同じように、何度も繰り返し考えることで頭の中に定着していく記憶になる。

だから、幸せな記憶はすぐ忘れてしまうけど、嫌な気持ちになった思い出はそう簡単には忘れられない。

でも、日々いろんなところで大きな失敗や事故にあうからやりきれない感情になることも多くある。だから長い目で見ると、本当に忘れてはいけないと思う思い出も長い時間が経ち新しい思い出ができればできるほど、ゆっくり薄れていく。


時間が経てば経つほど、好きな幸せな記憶も消えてしまう

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心地よい思い出が、消えていくのが悲しい。

何かにつけて、忘れたくないな、覚えていたいな、とか思ったりするのにいつの間にか忘れていく思い出になっている。忘れるというより、思い出すことがなくなるっていうのが正しい表現なのかもしれない。

たとえば、小学生の時の初めての身体測定の記憶とか、体育の授業で初めて走り高跳びを飛べたあの高揚感。一生懸命やった月曜日と木曜日のくもんの時間みたいな小さいな嬉しさの思い出。

家族との旅行の思い出ももちろん忘れたくないすごく幸せな思い出だけど、どうでもいい、忘れても差し支えもないような思い出が、自分から消えてなくなっていくのも、なんだか寂しい。

ほんとうは、私の周りにおこること全て記憶としてしっかり覚えていたいのに、覚えられない。

私の日常を全て写真とか動画に残して記録したいわけじゃない。ただ、日々の日常の中にある小さな感動や好きだなって思う時間が思い出から消えてしまうとなんだか寂しい気持ちになる。

そうやって私が意識しないうちに、一個ずつ思い出せない記憶が増えていっているのかと思うと、なんだか大事なものが、とんとなくなっていくような気さえしてしまう。

人間の記憶にはキャパシティがあるのは知っている。新しいことに日々で会うことはすごく素敵なことだと思う。だから、古い記憶が思い出せなくなるのはしょうがないこと。そんなことは知っている。だけど、なんだかどことなく寂しい。


どんな思いでもいつか忘れてしまう。だけど、それと同時に毎日新しい思い出を少しずつ作ってる

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今日も新しい自分に出会う。そして新しい自分で自分の1日をまたすごす。そんな新しい今日にもまた新しい悩みがあって、新しい幸せを感じる瞬間が遭って、いろんな思い出がたまっていく。

そして、悔しかったどんなに辛かった思い出も、もっと時間が経てば「若さ」「可能性」「希望」みたいな理想的な部分の思い出を好むようになっていつしか、過去が美化されて自分の好きな思い出になる。

辛い思い出も、少しだけ焦点を当てる部分を変えれば、嬉しい思い出や幸せな思い出になる。

どんな思い出も大事にしたい。私の思い出。

もしかしたら、こうやって今私が文章を一生懸命綴っていることもこれもいつか楽しい思い出に変わるかもしれない。

時に私を振り返りたい。そして振り返りかえってまた一生懸命考えたい。

私がしっかり生きているってことを、私の思い出を通して。


サポートしていただいたお金は、今後の生活費や活動費として大事に使わせていただきます。一生懸命に感情を言葉にして行きたいと思っています。よろしくお願いします。