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平安初期の「征夷」にまつわる8つのキーワード

新作公演「陸奥一蓮」開幕まであと一週間!

あまり耳慣れない人間キャストの布陣に「ついていけるかな……?」となんとなく不安な方も多いのではないでしょうか。

そこで、「阿弖流為?母禮?坂上田村麻呂?ナンノコッチャ!?」という方から「なんとなく知ってるけどもっと定着させた状態で新作を観たい」くらいの方までを対象に、関連する事柄をまとめてみました。

ちなみに筆者は刀ミュファン&歴史好きのただの大学生です。
基礎的な用語以上の込み入った内容についてはその都度参考文献を載せておりますので、詳しく知りたくなった方はそちらでぜひチェックお願いします!

(※作品の特質上、観劇にあたっての正史の把握って実はあまり意味がないのかもしれませんが、それでも知りたい!という方はご参考ください)




「陸奥一蓮」は「征夷」がテーマの一つになると予想されます。
まずはそこから確認していきましょう。

「征夷」とは

この文字を見て「征夷大将軍」を連想した方も多いかと思います。
刀ミュでもおなじみの源頼朝徳川家康、徳川秀忠がその有名どころです。
彼らは、乱世を鎮め日本中のつはものを束ねる「武士のトップ」という意味合いでこの官職に就きました。

しかし、もともとこの官職はより限定的な役目を背負った人物に臨時で与えられるものだったのです。
その役目こそが「征夷」でした。


始まりは飛鳥・奈良時代。
当時まだ小国であったこの国は、支配を東へ西へ広げようと「狩猟採集民が暮らす未開拓地を“開拓”して農耕の技術を与えてやろう」という大義名分を掲げ、いまだ国家に服属していない土地に向けてたびたび侵攻していました。

理想としたのは異民族を従え天下を統一する“中華”。
作品名を挙げるとすれば『キングダム』の世界です。

中国と比べると民族の数も土地の広さも小規模な日本でしたが、周辺国と対等な立場になれる立派な国家を目指し、正しいことと信じて“開拓”を推し進めました。
それは、言わば国家の一大プロジェクトだったのです。

侵攻する対象となった地方のなかでも、東北で暮らす人々は「蝦夷(=東の異民族)」とみなされ、定期的に征夷軍を差し向けられました。
そして、降伏したものは「俘囚(=国家の労働力)」として国家に取り込まれる、逆らうと征夷軍に攻め込まれるという理不尽な仕打ちを受けていました。
「征夷大将軍」はこの征夷軍を率いる人物に与えられた官職です。
(頼朝は「奥州合戦」で奥州藤原氏を滅亡させ[※「阿津賀志山異聞」参照]、家康は秀吉の「東北平定」に加担した[※「春風桃李巵」参照]ことで、この本来の役目を果たしたという見方もできます)

そして、(おそらく)「陸奥一蓮」で舞台となるのが、古代における東北支配の最終段階――桓武天皇の時代におこなわれた三度の「征夷」です。

一度目の「征夷」

延暦七年(七八八)、紀古佐美が征東大使(後の征夷大将軍にあたる)に任じられ、翌八年(七八九)には52,800人余りの兵が多賀城(国府 兼 蝦夷支配の本拠)に集結しました。
そして、兵士のなかから選ばれた4,000人が北上川の東岸に進軍、胆沢を本拠とする蝦夷に攻撃を開始します。
これに応戦するべく周辺の「蝦夷」を率いたのが阿弖流為です。

合戦が始まると、手強いと聞いていた蝦夷軍の騎馬兵を相手に、征夷軍は思いのほか順調に攻め込むことができました。
通過した村を焼き払いながら、北へ北へと追撃していきます。
しかし、これは周辺の地形を知り尽くした阿弖流為の罠でした。
進み続けた先には蝦夷軍が潜伏していたのです。
結果として、征夷軍は戦死者25人、負傷者245人、溺死者1,038人を出して撤退(『続日本紀』)。
第一次征討は失敗に終わりました。

一方、朝廷では同時に長岡京遷都がおこなわれていたのですが、洪水や疫病によってこちらも難航しています。

二度目の「征夷」

第二次征討も遷都と同時におこなわれました。
このときに造られた都が平安京です。
新たな造都と「征夷」には、前回の失敗をリセットして桓武の権威を確立する狙いがあったと考えられます(倉本宏一『内戦の日本古代史』p.208)。

延暦十年(七九二)、大伴弟麻呂を征夷大使、坂上田村麻呂ら四人を副使に任命(『続日本紀』)。
田村麻呂は当時34歳で、「征夷」に参加するのはこれが初めてでした。

第二次征討について、具体的な戦いの記録は残っていません。
なぜなら、『続日本紀』は延暦十年の記事が最後で、続く『日本後紀』は全四十巻中の三十巻が散逸して現代まで伝わっていないからです。
そのため、『日本後紀』を抜粋した文書などから状況が推測されています。
(言い換えれば、この辺りの歴史には自由に創作できる余白があるということです)


延暦十三年(七九四)の記事には、「蝦夷を征討した」、「斬首四百五十七級、捕虜百五十人」とあることから(『日本紀略』)、二度目の「征夷」は成功したことがわかります。

5年前の合戦で征夷軍を圧倒した阿弖流為らが今回はなぜ苦戦を強いられたのか。
その原因は征夷軍が
・前回の失敗を活かして周辺の地形を把握していたこと
・胆沢より北の「蝦夷」集団と手を結んでいたこと
などが考えられます(鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』p.200)。

延暦十一年(七九二)、朝廷は征討に先立って胆沢より北の「蝦夷」集団を服属させていました(『類聚国史』)。
これにより、阿弖流為側は正面の征夷軍と背後の蝦夷集団に挟まれたので、その戦力を大きく削がれることになったのです。               

三度目の「征夷」

最後の征討は延暦二十年(八〇一)におこなわれました。
目的は阿弖流為を降伏させることと(先述した多賀城のような)城柵の設置です(鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』p.204)。

延暦十六年(七九七)、前回副使として参加していた田村麻呂は「征夷大将軍」に任じられました(『日本紀略』)。
当時40歳。この前後に着々と出世していることからもわかる通り、天皇にとても信頼されていたのでしょう(鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』p.205)。 

延暦二十年(八〇一)、田村麻呂は都を出発し、40,000人の兵を率いました。
結果は征夷軍の勝利。
『日本紀略』には、田村麻呂の戦勝報告として「夷賊を倒伏す」とあるのみで、戦いの詳細は省かれています。

こうして胆沢は朝廷の支配下となり、胆沢城の造営工事が始まりました。
そんななか、族長の阿弖流為は同志である母禮とともに同族500余人を率いて投降することを決断します。
(このとき、田村麻呂と阿弖流為の間でどのような交渉がおこなわれたかについてはなにも記録が残っていませんので、「陸奥一蓮」のなかでどう演じられるのかたのしみです)
田村麻呂は申し出を受け入れ、彼らを引き連れて入京しました。

阿弖流為・母禮の処刑

桓武天皇や公卿たちは、長年にわたり抵抗を続けていた阿弖流為たちをようやく服属させることができたと歓喜します。
そして、「征夷」成功のアピールとして阿弖流為・母禮を処刑することが決定されたのです。
田村麻呂は、彼らを故郷に帰せば未服属の「蝦夷」支配に利用できると助命を求めますが、朝廷は「野生の獣心はいつか再び背くかもわからない。たまたま捕えられた族長を陸奥の奥地に放還すれば、虎を養って災いをあとに遺すようなものだ」と斥けました(『日本紀略』)。

この決定には、阿弖流為・母禮を処刑して初めて軍事が正当化されると考えた天皇の意向が反映されたと推測されています(鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』p.211)。

二人の処刑地については、河内国(現在の大阪府)であることはわかっているものの、詳しい地名は『日本紀略』の写本によって文字の異同があり、「杜山」「植山」「椙山」の三通りの説があります。

その後の「征夷」計画と終結

延暦二十三年(八〇四)、田村麻呂は再び「征夷大将軍」に任命されますが(『日本後紀』)、「征夷」が実行されることはありませんでした。

翌二十四年、「天下の徳政(民衆のための政治)」を巡って藤原緒嗣と菅野真道に相論させた「徳政相論」において、緒嗣が「征夷」と造都の中止を主張し、桓武天皇はそれを聞き入れたのです(『日本後紀』)。
度重なる「征夷」と造都によって国家の財政は圧迫され、民衆は疲弊していました。
なお、この結論は初めから用意されていたものとみられ、晩年を迎えていた桓武天皇が民衆の苦しみに理解を示す天皇を演じてみせたのだろうと考えられています(鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』p.216)。



ここからは当時の「刀」にまつわるキーワードを二つ紹介します。

蕨手刀

「征夷」の戦闘に使用された主な武器は弓矢でした。
この頃はまだ日本刀を作刀する技術が完成していなかったので、西日本で刀剣といえば反りのない「大刀」や「剣」のことを指しました。
直刃は刺すことには向いていますが、戦場において大勢の敵を薙ぎ倒すことには不向きです。

一方、「蝦夷」が住んでいた東北北部から北海道にかけての古墳から副葬品として多く出土した「蕨手刀」には反りがあります。
征夷軍が大敗を喫した第一次征討において、負傷者は全員弓矢に当たって負傷しており(『続日本紀』)、蕨手刀が実戦でどこまで使用されていたかは不明です。
しかし、西日本で日本刀が誕生する以前に東北地方で反りのある刀剣が作られていたこと自体、刀剣の歴史を考えるうえで興味深いです。


蕨手刀の謎多き構造については、NHK「歴史探偵」の「刀剣」の回で最新の技術を使って分析していました。
(この番組では刀工水心子正秀についても取り上げられています)


節刀

「節刀」とは、天皇から将軍へ一時的に軍事指揮権を委ねることのしるしに授与された刀のことです。
内裏にて節刀を授けられた将軍はそのまま征討に出発しなければならず、役目を終えて天皇に返却するまで自宅に入ることは許されませんでした(『令義外』)。

坂上田村麻呂は延暦二十年(八〇一)二月十四日に節刀を授与され、同年十月二十八日に返却しました(『日本紀略』)。
「征夷」の責任者として天皇の期待を一身に背負いながら、都から遠く離れた東北の地で八ヶ月もの間、阿弖流為・母禮ら「蝦夷」との戦闘や交渉を繰り返した田村麻呂はどのような心境だったのでしょうか。


開幕まで一週間

歴史上の人物キャストの顔ぶれが発表された日、小学生のとき以来久々にこの本を開きました。

小和田哲男監修『決定版 心をそだてる はじめての日本の歴史 名場面101』講談社、2006年。

この本は、日本の歴史のなかで有名な出来事が三名の著者と複数のイラストレーターによってビジュアル化された児童向けの入門書で、私が歴史を好きになったきっかけでもあります。

801年の「征夷」を題材にした「都に散った東北の勇者(文/岡田好惠   絵/平きょうこ)」は、たった2ページながら史実と物語を織り交ぜて印象的な場面を描き出しています。
が、当時の私は額田王や紫式部、お市の方など女性の物語に惹かれ、武士の物語はさらっと読み流す程度。
今回ようやくじっくり読むことができました。
そして、これはもっと詳しく知らなければならないと思い、勉強を始めました。

「陸奥一蓮」が最初に発表されたとき、唯一の地方公演の劇場が住んでいる場所ととても近いことに喜んでいたのですが、「征夷」について学び始めた今は「これは東北地方で上演されるべき作品なんじゃないか」という疑問を持っています。
たとえ地方公演がなくても、実際にその土地に行ってみたいとも思いました。

そんなわけで、ひとまずは「陸奥一蓮」の開幕を楽しみに待ちましょう。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございました!

参考文献

鈴木拓也『蝦夷と東北戦争(戦争の日本史3)』吉川弘文館、2008年。
倉本一宏『内戦の日本古代史 邪馬台国から武士の誕生まで』講談社、2018年。
長岡京市公式ホームページ「「長岡京」とは」(2024年3月1日閲覧)

名古屋刀剣博物館「蕨手刀とは」(2024年3月1日閲覧)


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