見出し画像

82.伊達家の隠された宝物はあるのだろうか?その1

このノートでは何度か黄金話しを書いていますが、有名な落合氏の著書に気になることが書いてありました。私の出版物(ガレリアフェニーチェ出版不思議な真実)にも書いているのですが、1615年と1616年に起きた大阪の陣の1615年に起きた冬の陣でのこと、豊臣方に味方した真田幸村は実は徳川家康が送り込んだ武将だったというのです。
何のために送り込んだかというと、秀吉の黄金を盗み出すためだと言います。
秀吉は生前、黄金を大阪城の地下に隠していたと言われ、大阪の陣が終わった後もその黄金は見つからなかったことになっています。ですから今でも黄金は、昔の大阪城の地下に眠っていると噂されています。

ところが、落合氏の話しでは、真田幸村が出城に造った真田丸の地下に黄金を運び出し隠して、冬の陣が終わると城の堀を徳川家康が埋めさせた時、真田丸の地下の黄金を掘り出して、大阪から船で一部はヨーロッパに、そして残りは青森に運んで隠した。そう書いています。
奇想天外な話しだと一般の方なら思われるかも知れませんが、伊達家の歴史を研究してきた私にとっては、つじつまが合うことがあるのです。

まず一番は、1616年の夏の陣の時、真田幸村の子供達を伊達家の片倉小十郎に預けていたという事実です。幸村の娘のお梅さんが片倉小十郎の後妻となって白石城に住んだことは史料にもありますし、白石城下には真田村という真田家の家臣達が造った集落もあります。

このことは、片倉小十郎の一存では決められないことですし、徳川家康に知られないなどあり得ません。もちろん伊達政宗公も承知のことでしょうし、徳川家康とも話し合いができていたものと思われます。
私はそこまで歴史を深読みしていませんでした。伊達家がうまく真田家の人達をかくまったのだろう、程度でしたが、落合氏の指摘を受けて改めて考えてみたところ、真田家の人達の一人や二人ではなく、村を造れる程の人数を隠せるわけなどありませんから、伊達家の歴史を再度見直してみたところ、やはりありました。


一つには、冬の陣の後伊達家は四国の宇和島に領地を徳川家康にもらって、政宗公の長男の秀宗を城主として送っています。何の報酬だったのでしょう。まだ、真田幸村の娘達は伊達家には預けられてはいませんし、戦も完全には終わっていません。

そこで私が史料で流し読みしていたことが重要なヒントだと気付きました。

ジャーン

そのことは明日のノートで書きます。お楽しみに。

今回も読んで下さりありがとうございました。感謝いたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?