努力と我慢は違うよね、と思ったお話

こんにちは!人形服つくりのりんごぽんです。


今年度から、北海道から関東地方にお引越しをしました。
上の子たちは、小学校を転校しました。


前の学校が、周囲の学校と比べても
大変宿題の少ない学校だったと思うのですが、
今の学校は、比較してしまうと
それはもう大変に、宿題の多い学校でした。


上の娘の宿題の量と、
それをこなすスピードを見ていたら
遊ぶ時間なんてほとんどないなあ…と
愕然とした日もあります。

あまり得意ではない単元の学習だったり、
そんなに乗り気ではない日には
半泣きになりながら宿題をやっていたりするのですが
本人は
「でも、努力は大事なんだよね」と言っているのです。

すばらしい考え方だとは思うけれど…。

これって、「努力」なのかな。

「努力」じゃなくて「我慢」に見える。


やりたくない量の宿題を、なんとかこなす我慢の時間に見える。

努力って、
最上級のものは
本人は夢中になりすぎて努力をしている感覚すらないけれど
周囲から見たら「すごい…よくあんなに努力できるなあ…」というような状態なんじゃないかしら。


そこまでではなくても、
努力することが楽しかったり
手応えを感じていたり
心の奥に熱いものが
ふつふつとたぎっていたりしたら
それこそが「努力」なんじゃないかしら。

そういう努力は、裏切らないし
「努力はかならず実を結ぶ」 というのも
この努力なんじゃないかしら。


それにひきかえ、
我慢から得られるものはなんだろう。
嫌なことをひたすら我慢してこなした結果、
そこにはいったいどのくらいのものが残るんだろう。

同じ量の宿題も、
「努力」をした人と
「我慢」をした人との間には
質的にもものすごい差がついているんじゃないかなあ。


実際、好きな単元を嬉々としてやっているときには
すごく身についているのがはたから見てもわかるわけです。


とすると、
周囲の大人ができることは
「我慢」の状態からふと顔を上げて、
楽しいポイントを見つけて
「努力」に変えていくことじゃないかしら。

せっかく同じ時間を使うんだったら、
我慢ではなく努力の時間にしたいなあと切に思うのでした。

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これ、自分に当てはめても本当にそう思うんです。
苦手なことをしているときって、
どこか我慢になっている。


我慢をしているから、知らず知らず不満もたまるんです。

私の場合、お片づけですね。
非常に苦手です。
毎日の片付けが、どこか我慢になっているから
他の家族が片付けないと、不満に感じるんです。

でも、好きなことに取り組んでいるときには
たとえ失敗をしても、
自信がついたり実力がついてきたりしますよね。


私の場合、無理やり家事に結びつけるとしたら、
洗濯(日向に干すこと)とミシンですね。


これをやっているときには
不満なんて、持ちようがない。

苦手なことを嫌々やる=我慢
よりも、
好きなことを嬉々としてやる=努力
のほうを選択していきたいなあ。

それは、「苦手だけれど必要なこと」にも言えることで
「苦手だけど、嫌々でもがんばる」から
「苦手なことの中に、好きなポイントを見つけて
ちょっと前向きになってみる」ことだってできるんじゃないかと。


ひとつの物事を、どんなふうに解釈するかで変わってくるんじゃないかと。

お片づけが苦手で我慢してやっているなら
いっそ、片付けるのをやめてみようと思ったのです。
でも、あまりにも散らかっていても不満に思うのです(笑)
そこで、
「100個のものを片付けたら コーヒーを飲んでいい」と決めて取り組んだら
70を過ぎたあたりから謎の探究心を出さないと片付けるものがなくなっていって
100終わる頃には「もっとやりたい✨」に変わっていたりします(^皿^)
このゲームをしているときには、「努力」に変わっている気がする。

大量の宿題を、
泣きながらする我慢から、
楽しくやる努力に変えられるようになったら
生きていくのがもっともっと楽しくなりそうな気がします✨


そのポイントを探したい。


お知恵のあるあなた!
ぜひ我々に愛の手を!^^

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