定時退社チャレンジ 326日目○

会社に対して、なんかいい感じに吹っ切れ始めた気がする。

ちょっと今日は、かなりの自分語りになる予感。
まあでもいいや、私のnoteだし☆(笑)

ちょっと『勘違いしちゃってる痛い人』な発言風に言うと、「え?もしかして自分、能力高すぎっすか??」て感じ。(おいおい、急にどうした)

昨日、ちょっとした事件がありましてね。
その時に、自分と周りの対応方法を見ていたら、「あれ?私すごくね?」と感じまして。

プライド高いくせに自己肯定感が激低なので、どうにも「私ごときが出来ることは、他人も普通に出来て当たり前」なんて思いがちで、「いやいや、貴方も十分すごいよ!」と言ってくれる人がいても、「いやいやいや、もっと凄い人はごまんといますから。慰めはいいっす(でも他人に劣っていると思われたくない!)」てなってしまうんですよ。めんどくさい人ですね、自分。

なのでずっと、弊社の働かない人を見ては、「ちゃんと働けよ。サボることばっかに熱心だよな。お前がサボることでこちらの仕事が増えてるんですけど?!」と思っていたんですよ。
つまり、『サボらず働いたら、私と同じくらいの仕事はこなせるはず』と、ある意味で「その人の能力を信じていた」んですね。

それが昨日、打ち破られた。

私なら一瞬で解決できることを延々とあ〜だこ〜だ言っていて、結果として何も解決してなかったんですよ。

今までも何度もそういうことはあったんですが、距離が遠かったので「うーわ、また固まってサボってるや…」と思ったり、本当に困っていそうなら途中で口や手を出して助けてたんですよ。

それがここ数日、すごく近くでそのやり取りをしていたんで、全貌が見えたんですが、その時に「あれ?この人達って、本気で解決案を見つけられないの?サボってばかりでここまできたから、積み上げられたものが何一つないのか?!」て衝撃を受けたんですよね。ウケる。

あたり前のことを「あたり前」に出来る人こそ素晴らしい。

この言葉に含まれている意味はたくさんあって、「コツコツやるのが素晴らしい」とか、「普段からやっていなければ、いざと言う時にもできない」とか、いろんな解釈が出来る。

今回の件にこじつけるとするならば、「やるべきことを丁寧にこなすことを『あたり前』と取り組んできた経験は、確実に積み重なっていく」て解釈も付加していいのではないか。

人それぞれ大切なものは違う。

会社の人が全員、仕事が大切だと思っていないことも分かる。

でも私は、「会社で働く自分」も、「友達や家族といる自分」も、「道ですれ違っただけの人である自分」も、全部引っ括めて『自分』だと思っている。

だから、全ての物事に対して誠実で在りたいと考えているし、実践しているつもりだ。

それを「要領が悪くてバカだ」と嘲笑う人だっている。

でも今回のように、自分が誠実に取り組んできた結果が積み重なって『今の自分』を形作っている瞬間を感じられた時、「ああ、間違っていなかったんだな」と自己肯定することができる。
実際に、実力となって身についているってことが実感できた。

身も心も削って辛かった日々から抜け出す為に『社労士試験に一発合格』という目標を掲げて働き方を変えようと必死にもがいてきた。

結果として一発合格は達成出来なかったが、この1年もがき苦しんできたことは確実に自分の力となっている。業務スキルだけでなく、物事の捉え方や自分自身を優先することを、頭で理解するのではなく、心で納得できてきた。

今まで、「仕事が出来ない/人の役に立たない自分は存在してはいけないのではないか」なんて強迫観念にも近い意識で必死に仕事をしてきたが、もうそろそろ、そういう意識を薄めてもいい頃合なのかもしれない。

私は、今の状態でも十分能力があって、それを惜しみなく周りに受け渡している。それはとても凄いことではないか。

私が社労士試験の勉強を始めたのは、『勉強』という大義名分で残業を減らしたかったし、『会社』以外に意識を逸らして自分の人生を大切にしたかったから。

でもそれ以上に、「困っている人がいたら手助けできる自分で在りたい」と思ったから。

知識は裏切らない。
生きた智恵は人を救う。

だから私は、常に「学ぶ姿勢」を捨てないで生きていたい。

「学ぶ姿勢」さえあれば、全ての物事から学び続けることが出来ると信じている。

だからもう、「なんでサボっている人と同じ評価しか貰えないんだ!私の努力が足りないからか!」と『他人のための努力』を止めて、私が信じる『人生の美学』を保つためだけに心を配っていこう。

私は、今のままでも十分素晴らしい。
でもさらに頑張るのは、私の『美学』。

それ以上でもそれ以下でもない。
それだけ。それだけで、いい。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?