この話が何人に通じるだろう…?

めちゃくちゃに “Si言語” で書いてます……。


私は外界のものを「私の外側」と「私の内側」に分けている。これは物理的な話ではなく、「外側にあると感じられるか、内側にあると感じられるか」という精神的な話。私は「内側」のものをより認識し、「外側」のものを簡単に無視できる。(うわぁ〜、めちゃくちゃSiだ……!)

これは私のアイデンティティと自己イメージに大きく関わってくる。私には「望む姿で見られたい」という欲求があり、その「望む姿」とはその時まさに “私の内側にあり” “心地良く感じられる” ものだ。この2つを満たす必要がある。
「内側に存在する=心地良い」ではない。それが私の中に “入った” 時、何か感触を感じる。それが私に快適さをもたらす場合、私はまさに「そのものと共にある」ように感じ、それが私に不快感をもたらす場合、私はそれを私のものでないとして取り除きたいという衝動に駆られる。

私はこの「外側」または「内側」として区別されたものをその状態のままにさせたい。つまり、本来私にとって外側にあるものが内側に “侵入” することから自分を守り(厚い膜を張るように)、私にとって内側にあるものを望まない時に外に漏れ出させたくない。
これはどういう事かというと、私が「珍しく唯一無二の存在でありたい」という欲求に繋がる。私は私のお気に入りものが外にあることを不意に目にする時、文字通り私が分散しているように感じる。「分散」というのが最も近い表現だが、より詳細に述べると、「自分の内側にある」として保ってきたものが外にあると認識することにより、その自分の内部のものがその位置にも移されたように ── コピーされたように ── 感じる。つまり私の自我の感覚はその場所と私自身という複数箇所で同時にあるように感じ、“ここの私” と “向こうの私” が同時に生きているように感じ、この分裂が気持ち悪く感じる。私はこのように「分散」したと感じないようにするためだけに、とにかく「誰も内面を詳細に知らない自分」であろうとする。
私は昔から、有名なものを好きになる ── つまりそれを自分の内部に “取り入れる” ── ことに不快感を感じてきた。それは格好つけたいわけでも何でもなく、ただ「私のもの」が外にあることを頻繁に認識することによって私自身が “散らばる” のを防ぐために他ならなかった。

自分の好きなものを不意に外で目にすると自分自身がバラバラになったように感じるの、私だけですかね……?
私がそのものに没頭し夢中になりすぎているからそうなるのだろう。




冒頭でこれを「Si言語」と言ったが、同じISFJでもこれがタイプ2やタイプ6のISFJに通じるなんて期待していない。

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