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「役に立たない勉強」の話をしよう

「文化人類学って何?」

初対面の、特に学問を専門にしていない人などからはよくこんなことを聞かれる。一般的には、「文化」の方はまだ親近感があるだろうが、ここに「人類」が付くと途端に理解されない。ないし「人類学」だけだと余計に理解されない。
その上に、一言でわかりやすく説明するのに骨を折る。なんとか説明したところで、次にくる質問はだいたい決まっている。次の二つだ。

「それってなんの役に立つの?」
「お金になるの?」

もう私にとっては慣れたものなので、「やれやれまた来たか」ともう一本骨を折る心の用意もできている。
おそらく文化人類学だけではなく、隣接する人文学を専門とする人ならこの質問に対して、これ以上折る骨は無いというほど骨を折ってきただろう。なにせ教育に最も関係する省庁から直々に役に立たないと言われたのだ。さぞ役に立たないイメージが流布しているのだろう。
この役立たずレッテルのせいで、私という人間までも無能扱いされる。

加えて、役立たずレッテルに引きずられてか、一般的に流布しているイメージはこうである。

「就職先がない。お金もない。結婚も遅い/できない。」
「自分の好きなことをしているのだからそのくらいの不幸は当然だ。」

この際だから、この手の質問をされる皆々様がたに謹んで「余計なお世話」と回答を申し上げたい。

ただそう言い切るだけ言い切って逃げるのは簡単だが、2、3ほど弁明をしたい。然るのちに一目散に逃げたい。
まず、役に立たないというのは誤解もしくは認識の非整合がある。

文化を学ぶことは確かに金にならない。おまけに理系の研究の様に、実生活にすぐさま応用されて暮らしを豊かにもしない。だが私から言わせてもらえば金を稼ぐことばかりに目をとらわれること自体がナンセンスだし、先端技術にあふれた生活ばかりが豊かな社会ではない。確かにお金は必要である。何をするにも世の中お金がかかる。しかし、お金など所詮は交換のための一種のツールに過ぎないのに、盲目的にこれを集めて蓄積することは本末転倒である。ひどい時には富の蓄積を権力とを比例関係にあるとみている者もある。
その様な人からしたら、人文学の研究は金を生まない非生産的な営為に見えるかもしれない。しかし、彼らは自分たちがあぐらをかいているその土台が人文学によって支えられてきたことには、驚くほど無自覚だ。

辞書を引くこと、本を読むこと、旅をすること…様々な事に人文学が関わっている。ただ、あまり自覚されていないだけだ。一部の人々があぐらをかいている資本主義だって、哲学的な思考に端を発するといっても過言ではない。

・・・などと申し上げたところで理解されないのはわかっている。「役に立たないレッテル」はなかなかしつこい。宅配物のシールのようにはやすやすと剥がれてくれない。ただ、自分の好きなことをしているからには、多少の苦難は受け入れようという気概はある。私にはある。死ぬほどお金がなくて1ヶ月1万円くらいで生活していたこともあるし、それでも勉強して解明したいことがある。勉強というのは本来、こうであってこそだと私は思う。

「役に立たない勉強」なんてものはない。そう願いたい。知識というのはいくら頭に詰め込んだところで荷物になるわけでもないし、邪魔にもならない。うまく貯蔵して引き出す能力があれば、それはどんな形にも昇華しうる。ひょっとすると、誰かの人生を豊かにすることだってできるかもしれない。人文学は、そうでなければならないと考える。

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