普通って何だ?

今日、ホームステイ先のおばあさんが炊いたお米を食べて感じたことだ。

おばあさんは米を研がない。その上、ナベに水を沸かしてタマネギを煮て、塩とオリーブオイルを投入してから米を入れる。10分ほど炊いたらタマネギを取り出してツナ缶を一緒に食べる。

もちろん味も食感も違う。米の種類が違うとかそういう問題じゃない。しかもこのお米、サラダに混ぜて使う。娘さんは、このお米とツナのトマト煮を混ぜて食べる。彼女たちにとってはこれが至って普通なのだ。

私は普通とは何かを考えさせられた。ちなみにこの「普通」ということを考えるきっかけになったのは恩師のインタビュー記事(http://hotozero.com/feature/kyodaitalk_4/)を読んだのがきっかけだ。

彼らにとっての普通は私にとっての普通ではない。普通は普遍ではない。普通というのは国の数だけ、地域の数だけ、もしかしたら人の数だけある。

では、私が感じるこの違和感は何だ?特定の範囲の人の間で共有された規則なり習慣なり、食べ物だったり生活時間だったり、そういうものの違いが文化なのではないだろうか。「自分のものとは異なった普通」が文化であるというよりも、「自分の普通と他所の普通の間にある差異」が文化であると捉えたほうがしっくりくる。少なくとも私にとってはしっかりくる。読者諸賢の方に当てはまるかはわからない。違和感というのは「(普通の数)ー1」だけ存在していてもいいはずだ。

普通と普通の間にあるものが文化だとしたら、いわゆるカルチャーショックはこのズレがダイレクトに私に訴えかけてくる力だ。

思うに、この世の全てを構成するのは「組合せ」もしくは「構成」である。突然何を言い出したのかと思われるかもしれないが、ここは少し辛抱して耳を傾けてほしい。

世界中、あるいは宇宙であれ、それを構成するものは極限までミクロな視点を持てばいくつかの原子から構成されている。それはどこであっても普遍的な性質を持っているし、原子なんて極端な例でなくとも「道具」であれ「言葉」であれ、世の中にあるものは場所は違えどそんなに違いはしない。ましてグローバル化が進んでいる今日ではなおさらだ。

我々の生活を構成するものなんて、そんなに異なったものではない。しかし、そこに違和感なりカルチャーショックを感じるのは、その使い方、構成、文脈が違っているからだ。その土地、その人々のなかで共有されている、そういった普遍的なものの組み立て方がある。我々は旅行なり研究なりで別の文脈に移動することによって、その組み立て方の差であるところの文化を感じるのだろう。


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Rín /文化人類学

世の中は知らないものと知りたいことで溢れている、それを少しずつ削り取って自分のものにすることが何より面白い。 関心:文化人類学、呪術、祭礼、魔除け フィールド:スペイン、京都

人類学的思考

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