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スペインの田舎暮らしから考えた近代国家

私は2019年2月、スペイン中部のとある村に滞在していた。

村といっても人口は5000人。皆が皆顔見知りというわけではないし、「〇〇の店の横に住んでる人で〜」なんていうと、なんとなく顔がわかるレベルだ。
中心地には大手スーパーの支店が2つ、あとは地元のパン屋や肉屋、服屋、チュロス屋などがある。
もちろんバスや電車はあまり機能していない。あることはあるのだが、本数が少ない上に高額なので皆自家用車を持っている。

バスと電車が通っているだけまだマシだが、中心部から足を踏み出すとそこには御影石とエスコバという灌木が延々と続く平野が広がっている。時折、ウシやヒツジが放牧されているのが白黒の点のようにみえる。遠方からカウベルの音がかすかに響く以外には、人工的な音はしない。

ある日、家主がその友人の家に連れて行ってくれたことがあった。車で郊外に15分ほど。御影石の丘を、飼われているらしきウシの目線とその排泄物をかわしながら10分ほど登ると彼の家があった。

その友人は石積みの家に住み、壁しかない廃墟だった家を自分で全部改修したという。その手法もこの地域伝統のものからモロッコ流のものまで幅広く、野生の植物、キノコの種類、保存食の作り方などについて無尽蔵の知識を持っている。家の周りにはローズマリーが咲き誇り、鶏が地面をついばむ。彼の知識は、この家という形を持って存在している。

かりそめにも先進国と言われる場所で、こんな原初的な暮らしをしている人がいるのかと私は驚き、また感動したが、無論それだけで生きていけるはずはなかった。
彼は夏以外の季節は自給自足的な生活をしているが、夏場には首都で消防士として働いている。現金収入がどうしても必要なのだ。生計を立てるためには身の回りのものを買ったり、色々とお金を納めたりすることも当然ある。この家の改修にだって色々なものを買ったはずだ。
一見してオーガニックな暮らしの中にも、スマートフォン、電気、上下水道などが織り込まれている。もちろんこれらも重要なツールだ。だが彼にとっては、あればいいもの、なくてもいいもの。そんな扱いだ。

近代化した国家という枠組みの中で生きる以上は、その構成員である権利と義務がある。この関係は、カネによって繋がれている。大きな資本主義という影が、背景にある。最低限のカネが払えなければ国民とは呼ばれないし、社会的には大人とも見られない。彼のように素朴な暮らしをしている人間でさえ、完全な形でそのような暮らしをすることは許されない。

近代国家、先進国、といった枠組みは日本人である我々には当然のように思われる。その中に生きているのだから、それを当然と思うのが自然の成り行きだ。ただし、先進国と言われる国の中にも、彼のような生活をする人は少なからずいるし、反対に消費すること蓄財することに全てを捧げる人もいる。付き合い方も様々だ。
それぞれが付き合いたいように、付き合うことのできる範囲で付き合っていけば良いと思うのだが、近代的な国家というのはカネが(およそ)全てを左右する社会、意識されていないながらも存在する資本主義といったものの前提の上に成り立っている。このことを、イベリア半島の真ん中に住む一人の男の生活が教えてくれた。


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