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酔って思ったことを連綿と書き残す48「文筆と恋火」

はしがき。

『シン・死の媛』第二章の冒頭部分ができました。
相当悩みながら書き始め、つっかえつっかえ、どうにも進まず、苛々とした私は「いったん、男と遊ぼう!」と、生来の遊び人の本性を丸出しに、マッチングアプリを開きました。
そして、翌日のお昼に見知らぬ男性と待ち合わせ、昼間から酒を大いに呑みました。
本人にも言いましたが、全身黒づくめ、マスクも黒、眼鏡も黒だったので、「ひたすらに黒いな」と思いました。あとは、でかい。182cmだそうです。いろんな男性と遊びましたが、歴代最高の「でかい人」でした。
何かと省略しますが、その日のうちに、その男性は私の彼氏となりました。
二章冒頭の絢ちゃんのセリフに、私の思いもそっと混ぜてます。
恋をすることなんか、もうないと思うに決まってるじゃないか。齢46です。それも、散々異性と遊んでいるので、今でも彼のことを心底信用はできておりません。
それでも愛されると、恋火はちゃんと灯るものなのですね。
恋とはつくづく不可思議な生き物だ、と思わされてから、サクサクと、二章の冒頭が進んでくれました。ツナギが、彼氏の如く大暴走の予感。二章は、迷走しそうです。

でも案外、良かったのかもしれません。絢ちゃんの恋模様を、自分自身が体感しながら書けるという環境に落ちついたのは。恋をしたのは、実に二十年ぶりです。

己の恋火に関しての懸案はいろいろあるけれど、最も懸念しているのは、この『note』の記事を、彼がいつか見ることになるだろうということでしょうか。
まさか付き合うことになるとは思っておらず、「普段何してるの?」という、初対面あるある話の中で、「小説を書いてる」「noteに載せてる」って、言ってしまったのですよね。
死の媛、内容、ガッツリと同性愛ですし。
過去の記事で、己のいらんこと、わあわあ言ってますしね。
それが一番、おっかない。
おっかなびっくりな中年の恋愛事情は、はしがきで、これからもお楽しみください。
何かと、忙しくなりそうです。

ちなみに作中に登場する『サンタ・ルチア』は、亡き義父の十八番でした。あだ名もルチアでした。



*****


     第二章 


『亡霊では、人は殺せないよ』

 先生の発言の、決定的な証拠が欲しかった。天渺宮てんびょうのみやが亡霊ではない、確かな証拠。それは、死の回廊に侵入し、死の媛の明瞭な姿をマイクロフィルムに収めること。それ以外の手立ては、今のところ見当たらない。
 殿下は、実はご存命で、あまつさえ、三万人の民を処刑して居ります。
「gruselig, 」 
 怖い。
 そんな彼にではありません。私たちこそが、もっとも恐ろしいのです。
 私たち嘉国かこくは、彼をたすけ、彼を本物の『亡霊』にしようとしている。隠密裡に救い出し、幽閉しようとしている。先日、暗号電文にて、嘉国連邦参事会はだいたいこのようなことをおっしゃられました。
「だって、『天祥の象徴』たる天渺宮が人殺しだなんて、国民に言えるわけないじゃん。なので、殿下におかれましては、このまま史実どおりに死んでてもらいましょう。でも、こっそりお救けしましょうかね。何せ『天祥の象徴』ですからね。何もせず、バチが当たってしまったら困りものです」
 なんと傲然たる偽善でしょう。そして下々たる我々にも、殿下の義姉でもあられる嘉国女王陛下におかれましても、嘉国政界を束ねる参事会の意向には、口を挟むこと、一切あたわず。
 嘉国では現在、『死の媛』たる人物を幽閉する、施設の選定が隠密裡に行われているとのこと。
「申し訳ありません」
 殿下、或いは陛下への独り言は、代替燃料の回転音に掻き消された。
 ともあれ、私たち諜報員は、確乎たる証拠を、可及的速やかに参事会へと提示しなくてはならない。噂を事実にし、そして死の媛を、心の臓が動いたまま、封印する算段を整える。
 胸など、張れるものですか。
 駱駝色のシトロエンは、主人と同じ憂鬱な面持ちで、燦国さんごく首都、二城にじょう中心部へと排煙をたなびかせる。内心とは裏腹に、車景は一面の青。半開きにしたドア・ウィンドウからは初秋の風が、金木犀の匂いを微かに孕み、吹き込んでくる。赤信号で停止するのを待ち侘びたように、左手は外套のポケットに伸びた。勿忘わすれな、と記された天色あまいろの紙包みから手早く煙草を取り出し、赤紙に巻かれたフィルターを咥える。オイルライターの炎が、微風そよかぜに揺らめく。ひと息、紫煙を薫らせると、遠く、李宮時計台の鐘声が街の喧噪へと紛れ込んできた。鐘声は、九月最後の正午を報せる。おそらくそこに、死の媛もいる。
 彼と、彼女との逢着。
 行き交う歩行者たちを眺めながら、追憶する。あれは、燦国に侵入して数ヶ月ほどの頃だったと記憶している。
 マーケットの古本屋で、不意に、見知ったお顔の寫眞集を発見した。私はかつて、そのお方に獨逸語を少し、お教えしたことがある。いつまでも忘れられそうにない。緑葉の芽生えとともに散りゆく桜花のような、鮮やかな出来事だった。嘉国王宮、朱花宮。一九三五年、元旦。控室の隅、大礼服姿の彼が私を呼び止め、見せたものは、ゲーテ『ファウスト』の原語版だった。
「絶望する悪魔ほど、この世に不条理なものはない」
 御歳、十五。
 お声変わりを終えられたばかり。ざらつきの残る内声が、淀みなく悲劇の科白を諳んじる。
「どこら辺に書かれてあるか、苡香いきょうさん、わかりますか?」
 白く、しなやかな手指が、可憐な音を立ててペエジを手繰る。その様子は、言葉と裏腹の無邪気。
 第一部、森と洞、メフィストフェレスの冷笑たる科白。
 今となっては、まるで、死の媛の科白にも聞こえる。Als einen Teufel der verzweifelt.
 該当する一文を読み上げると、彼はそれを幾度となく愛誦した。絵画の成り立ちのように、彼の発する言葉が、少しずつ確かな獨逸語を象ってゆく。得意げな面持ちもまるで持たず、天真爛漫に異国の言葉と遊び耽るその趣は、彼の生まれ持った容色とも裏腹で、人らしく、まるで人形が心柄を宿している、そんな印象を私に与えた。
 悧発そうな双眸は、月の色。
 数時間後、彼は『天渺宮』を冠した。
 信号が変わる。シトロエンは、気合い高らかにガラガラとエンジンを回す。
 嘉国梁園、天渺宮と、嘉国燦州の伝説の娼妓、雨。
 二つの点は、マーケットの一冊の寫眞集『雨』に依って、私の中で、太くしっかりとした線へと変容した。身罷られた先代嘉国女王陛下の御心に大事にしまわれていたであろう、彼の過去。
 その当時は、それきりだった。胸の裡に留め、しまっていた。
 そのうちに吹き込んできた、あの、よくない噂。
『死の媛は、天渺宮の亡霊ではないか?』
 私は、雨という娼妓を追い始めた。雨さまを綿密に追えば、同一人物である殿下を『亡霊』と呼べない人に、必ず突き当たると確信したからだった。証拠を入手するため、娼妓に扮した。そうして『絶望する悪魔』に固執した彼の本心を、少し、垣間見たつもりだ。 
 今も、想い人は変わらず、彼なのでしょうか。
『亡霊では、人は殺せないよ』
 名もなき『先生』を探すのには、幾度も骨を折った。
「自分で調べな」
 楼主さまは我が子のように、先生のプライベエトを胸裡に秘めた。
 市電を追い越し、左折。
 のどけき住宅街をゆっくりと直進し、馴染みの看板を通過。隣接する駐車場へと進入する。既に一台のベンツが停められていた。煙草を消し、ドアを開けると、一本の大銀杏が深緑の葉を擦れ合わせ、耳心地良く、来訪を出迎える。
 住宅地に埋もれる、小さな会員制レストラン、みかど。
 コック姿のナポレオンは、昨日の定休日を満喫したのか、健やかに昼光を浴びていた。
 木製のドアを開けると、設えのベルが凛と鳴る。
「いらっしゃい」
 シトロエンに是非とも見習ってもらいたいような、太く鷹揚とした男声が店の奥より届く。テエブル席には、リントヴルム団の国防色が一客。据置きの雑誌を広げ、何やら独り言を呟いている。傍らには食べかけのシチュードビーフ。スプウンが褐色の海に落ちそうになっている。それにしても、彼はなぜいつも『女性時代』ばかりを熟読しているのでしょう。彼の視線は、いつだって『女性時代』に向けられている。
 いつものカウンタ席に腰掛けると、コック姿の、およそナポレオンとは程遠い中肉中年が、レモン水の入ったグラスを丸いトレンチに乗せて運んできた。
「いつもので良いかい? 絢ちゃんも」
 背後の、いつもの『少尉』に目配せして、註文を取り付ける。はい、と答えると、君たち飽きないねえ、と返ってくる。いつものやり取りだ。レモン水を煽ると、いつもより酸味が強かった。
「今日、お迎えに行くんだろ?」
 コック、もとい『ステーク』が、確認の問いを厨房より投げかけてくる。冷藏庫の開閉音。
「はい」
 今日は少し、命を張らないといけない。「テエブルの端、」ステークにそう言われて端を見遣ると、アルミ製のランチボックスが二つ、並べられていた。
「夜食のパンケーキね」
 相変わらず、気の利く店主だ。
「お迎え前に食べないよう、留意します」
 感謝の言葉を吻に乗せる。レストランみかどのメニューに、パンケーキはない。しかし、夜食には勿体無いほどの逸品だ。本日お迎えする、甘党の大好物。きっと、お喜びになるに違いない。
 まずは、その夜食にありつけるよう邁進せねばならない。
 手許に置かれた、燦国日日新聞、一九三八年九月三十日、第一五二七二號を広げる。人絹織物不成績、物価騰勢続く。国境封鎖下、建国当初のような軍事侵攻もなく、今日日の新聞記事は自国情勢のみを長閑に伝える。二城音楽学校、来年度創設。外套のポケットから煙草を取り出す。
 ドアが、凛と鳴った。
「おや、いらっしゃい」
 振り返ると、深紅の華美なドレスに身を包んだ、異国の女性の来訪だった。
「こんにちは」
 露西亞語でこちらに笑顔を振りまき、『女性時代』から目を離さない少尉へと近づく。
「何を、読んでいるの?」
 軍服の背に被さり、雑誌を覗き込む。「ふむふむ、女學徒の蜜壷は淫らに滴り、」
「読むな」
 一喝するものの、少尉の視線は雑誌から離れない。異国婦人は、彼の体の或る部分を視認してから、蝶のように裾を翻し、カウンタの、私の隣へと腰掛ける。
「彼、インポテンツかも知れないわ」
 露西亞語で、不要の報告した。
「ステーク、果物と紅茶をくださいな」
 厨房の奥から「はいよ」と、返辞が聞こえる。
「珍しいですね、お昼にお一人でいらっしゃるなんて」
 言いながら、勿忘から煙草を振り出すと、ああ、待って、と『ラウラ姫』が阻止した。
「私、いいものを持っているの」
 サテン生地のクラッチバッグから、或る紙包みを取り出す。ラッキーストライクだった。『甘い物の代りにラッキーをのみなさい』の謳い文句が、今となっては懐かしい。燦国では、海外製の煙草は手に入らない。
「どうして、それを?」
 ラウラに尋ねると、「どうしてでしょう?」と、艶然とかわされる。ステークが「はい、おまちどうさま」と、私の『いつもの』を供する。プデング、ハムサラダ。珈琲は、食後に。
「総統閣下は、これをんでるわ」
 一本いただいて、火を点ける。ラウラもラッキーを手にしたので、火を移す。気持ちよさげに噴かすその所作も、こなれたものだった。
「喫煙者だったんですね」
 総統閣下の愛妾であり、燦国の歌姫とも賞される、ラウラ姫。元は、嘉国の歌姫だった。
「あれば、喫むのよ」
 ラッキーしか喫みたくないの。我儘で、一途。「これは昨晩、閣下の枕元からくすねてきたのよ」紙包みの中は、残り三本だった。その中に、別のものが紛れている。
 厨房から、小気味のいい庖丁の音。
「それ、いただいても?」
 露西亞語で、尋ねる。
「勿論」
 露西亞語で、返ってくる。私は、箱の中の小さな紙片を受け取った。煙草のように丸められたそれを開くと、キリル文字と数字が交互に並んでいる。ラウラ作の、暗号文章。
 十月二十三日午後五時、中央党臨時総会開催決ス
「おかわいそうにね」
 ラウラは、大袈裟に、両掌を天へと掲げる。
「党員さんは、宵花祭よいばなまつりが見れなくて」
 ふと、少尉の方を見遣ると、食べかけのシチュードビーフから水没したスプウンを救い出していた。中央党お抱えの軍事集団『リントヴルム団』も、おかわいそうに、全員参加か。いや。
 待って?
 午後、五時?
「死の回廊は?」
 総統閣下は必ず、公開処刑をご観覧になる。
「ご欠席されないわよ」
 ラウラは明言した。ブロンドのフィンガーウェーブを、人さし指でくるくると巻く。
「ラジオ演説の原稿、鋭意製作中」
 なるほど?
「録音放送、ね」
 紫煙を菱目の天井へと薫らせる。白濁の天の川が生まれ、霧散する。
「お待たせしました、歌姫」
 桔梗型のクリアガラスに、色とりどりに盛られた果物と、お揃いの薔薇模様のカップソーサーにティーポット、ミルクポットを添えて。
「ウヰスキーじゃなくて、いいのかい?」
 トレンチを胸に抱きながら、ステークが隣席に座る。
「意地悪ね」
 ラウラが、その右頬に接吻した。
「私がウヰスキーを嗜むのは、閣下の枕元に行く日だけよ」
 つまり、本日は『おやすみ』ということのようだ。彼女の『いつもの』は三種類ある。
 一、果物と紅茶
 一、グリルドチキンに野菜三種添(ほか、果物・パン・紅茶)
 一、チーズと、ウヰスキーをロックで
 グリルドチキンの日は決まって、彼女の公演日だ。
「チキンは喉にいいのよ」
 奔放な歌姫は、案外余念がない。
 煙草を消して、ハムサラダからいただく。
「あなたの『いつもの』は、変わってるのね」
 テエブルに頬杖をついて、ラウラがそのメニューを評価する。
「絢ちゃんは、甘いものしか食べないんだよ」
 燦国で生き抜くのに、最もふさわしくない人材だね。砂糖が泡沫な燦国を、ステークが密かに愁う。レストランみかどの、燦国で営業しているとは思えぬ豊富な食材の密輸経路は、不詳。予想では、彼かしら。
「少尉、」
 話しかけると、背中越しに「何?」と返辞があった。
「今日の分は『ツナギ』に渡しておいてくれますか? 多分そろそろ、来るでしょうから」
 わかった。その声は、呑気にビーフを食んでいる。私も、トマトを口に放り込んだ。糖度の高い良質な甘みが、少しの酸味とドレッシングの塩気を伴い、口内いっぱいに広がってゆく。隣のラウラも、真っ赤なクランベリーを口に運ぶ。
「うーん」
 至福の表情で、ラウラが上半身を揺り動かす。最高、と感想を述べて、二口目。
「ラウラは、」
 彼女の碧眼を覗き込む。
「本当は、波蘭ポーランドの人なんでしたっけ?」
 私の知る『ラウラ姫』は、世間の知る概要と同等程度だった。
「そうよ」
 満面の笑みの、眼底には哀愁。
蘇維埃ソビエト生まれの波蘭人。戦争にばかり巻き込まれているわ」
 幼少期に、戦争で嘉国へ亡命。燦国事変当日は、晩餐会で歌声を披露するため、李宮りきゅうを訪れていた。
「ちゃあんと、私のことも救けてよね」
 そのために協力してあげてるんだから。ドレスと同色の深紅の唇は、そう言い置いて、薄切りの林檎を食む。囚われの姫は彼女と、もう一人。
「勿論」
 私も、薄切りの胡瓜を食む。しかし、嘉国は今のところ、やる気がない。何を引き起こせば、重い腰を上げてくれるだろうか。
 少尉が、内部で反乱でも起こしてくれると手っ取り早いのだけど、その提案は彼によって「断乎拒否」されている。
「必要以上の協力はしない」
 彼の協力は、ラジオ局の機密原稿を、指定の焼却場でなく、レストランみかどで処分すること。
 見返りは、シチュードビーフ。
「でも、絢ちゃんは、どうして諜報員になったの?」
 ここには現在、関係者しかいないが、ラウラは露西亞語を用いた。秘密の話を教えてよ、ということのようらしい。
「元は、女王陛下のお付きなのでしょ?」
 現在も兼任しています。
「端的にお話しすれば、私の武術が他よりも優れていたからです」
 ラウラに正直に話すも、「はてな?」といった顔をされた。案外、説明の難しい理由だ、と思う。
「燦国で身分を偽装するのに、」
 ドアのベルが、また鳴った。ちょうどいいところに来てくれた。
「ツナギ」
 名を呼ぶと、ボサボサ頭の長身は、咥え煙草で右手を上げた。また、繃帯ほうたいが増えている。湿潤液の滲む、人さし指。
「どうしたの、それ」
 のそりとカウンタに近づくニッカボッカーズ大男に、指のことを尋ねると「さっき、はんだづけで火傷した」とのことだった。彼は、左利きなのです。そして、ドジっ子。
「今年、何回目?」
「十、二?」
 ぼうっとした薄茶の眼は、寝起きだよ、と物語っている。残念ながら、十四回目です。
 火傷、十四回。家の階段から転落、五回。煙草の火の不始末、二回。髭剃りで流血、三十七回。よく見たら顎に血の跡がついてるので、本日で三十八回。
 よく、スパイになれたな、と日々思います。
 ツナギの『いつもの』を拵えるために立ち上がったステークの席に、音もなく着席する。ラウラ姫の方を見遣ると「この方は、どなた?」といった、愛らしい表情だ。
 初見ですね。
「これが、例の『ツナギ』」
 チームみかどの親玉。正真正銘、嘉国軍情報通信部一局所属のエージェント。私の先輩。
「私の、旦那さまです」
 身分を偽装するために夫婦を演じ、武術が、どちらかといえば不得手なドジっ子を、燦国から守る。
 近衛師団所属の私のもとにその打診があった時は、さすがに戸惑いました。
「なるほど!」
 私が諜報員となった理由を聞かされた歌姫は、席を立ち、くるりと回った。
「愛し合っては、いないのね!」
 ツナギと、思わず目が合った。
「することは、してるよね?」
「まあ、」
 妙な会話になっている。なんとなく少尉の方を見ると、『女性時代』をめくる手が硬直している。遠くからは、ステークの軽い咳払い。ラウラは、私たちに抱きついた。
「素敵!」
 燦国の歌姫は、他人の恋模様にも慧眼であるらしかった。俄かに近づいたツナギの口許が、異国語を啄む。
 Bon repas doit commencer par la faim.
「?」
 空腹は最高のスパイス。妬かれている、という意味かしら。ならば、恋人同士のように見せない方が賢明かも知れない。夫婦らしくしよう。厨房から立ち込めるハムの焼ける匂いが、妙に食欲をそそる。あとで一口。それも、貰わない方が賢明?
「煙草、ちょうだい」
 プデングにスプウンを伸ばした私の外套を、似非えせの配偶者がまさぐる。
「あれ? ない、」
「そっち」
 テエブルを顎で指し示す。席に戻ったラウラは、ずっとツナギを見ている。
「本当の夫婦みたい」
 板についた生活感は、演じる必要もないらしかった。なんと答えようか逡巡していると、ツナギが勿忘を片手に、ラウラ姫に露西亞語で話しかける。
「違うよ」
 大きな体が小さく遠のく、錯覚。
「でも、」
 人のスプウンに乗ったプデングを、パクリと食し。
「ことが済んだら、女王陛下には大変申し訳ないけど、攫うつもり」
 え?
「カリフォルニアらへんがいいかなあ?」
 初めて耳にした彼の所信表明演説に、耳がうっかりと熱くなった。
 彼の横顔は、本気。
 それは出来ない、なんて言えない。
「えっと、」
 プデングを掬う。
「ニューヨークの方が、好きかな」
 心にもないことを呟く。ツナギがこちらを一瞥したような気がした。
「いいなあ、逃避行」
 ツナギが着火したオイルライターの炎を眺め、ラウラはテエブルに俯せる。恋がしたいわ。ツナギの比喩は当たっていた。恋、か。
 恋なんて、一生しないと思っていた。

 いつもの大盛りのハムライスを、小一時間、ゆっくりと堪能するツナギを見守る間に、機密原稿をツナギに預けた少尉は基地へと帰還。ラウラは一曲、『サンタ・ルチア』を披露して帰っていった。続く客はなし。二人が帰ってから、ハムライスを一口貰って、私も席を立った。
「今日は、買い付けに行くの?」
 アルミ製のランチボックスを抱え持って、ツナギに話しかける。平皿にはまだ、数口分のハムライスが残っていた。「みかどのハムライスは、冷めると尚美味しい」。ツナギの常套句だ。厨房では、ステークが彼の晩ご飯を拵えている。どうにも、ハムライスの匂いがする。
「うん」
 口に残るハムライスをしっかりと噛み終えてから、ツナギが首肯うなずく。私たち夫婦は、電気用品の古物商を装っている。無線傍受を生業にする彼の、理にかなった職業だ。
「あっちに行く」
 彼の指差す方角は、東。
 私は、南南西の端へと向かう。シトロエンで、六時間。そこから徒歩で二時間弱。
「部屋は片付けとくから」
 そう言って片付いていた試しはないが、一応首肯く。
「お布団は、干してくれた?」
「忘れた」
 そう。
「じゃあね」
 ツナギの分の代金もステークに手渡し、勿忘は、ツナギに。オイルライターだけをポケットに入れ、私はみかどを後にした。
「気をつけて」
 別れの接吻もない。火傷をした右手をさらりと振る。
 それが、たまらなく好きだ。






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