第三項理論のなにが問題なのか

とある写真がきっかけで、国語教育界隈がいま、「第三項理論」というものをめぐってザワザワしている。
その写真とは、『日本文学』(日本文学協会刊行)の2月号に掲載された、とある文章に関するものだった。

おそらくタイトルに引っ張られてきた方が大半だと思うのでそう説明もいらないとは思うが、ザワザワの原因はもちろん「第三項理論」である。
この投稿以来、「第三項理論」は国語教育関係者を中心に、断続的な議論の展開を見せている。
「第三項理論」および「第三項」、そして提唱者である「田中実」や「日文協」などのキーワードで検索をかけると、およそどのような反応が示されているかが分かる。

一応簡単に第三項理論について説明しておくと(ご存じの方は読み飛ばしてください)、第三項理論とは、「読む」という行為に、文章の外部領域を介在させ、それを通して、読み手が新たな読み筋を獲得していく(=成長していく)可能性を、テキスト内在的な読解以上に広げていこうとするものだ(と私は考えている)。

一般に文章を「読む」というとき、普通は自分に見えている限りのものが、その文章のストーリーなりメッセージであると受け取られる。
あるいは、「読む」という行為の目的は、その文章が持っている「本来の意味」をきちんと読み取れることだという見方もあるだろう。こちらは、現代文のテストなどを思い浮かべてもらえれば良いかと思う。
この両者に共通しているのは、いま読んでいる文章の内部で「読む」という行為が完結しているということだ。言い換えれば、「読む」という行為が、読み手と文章の二項構造で行われているということだ。第三項理論が問題とするのは、まさにこうした態度である。

文章の内部で「読む」という行為が完結してしまうことには、次のような問題がある。
まず、唯一のメッセージを追いかけることが目的になる場合、読み手には、常に「正しい」読解を期待されることになる。したがって、その途上にある読解はすべて「間違い」であって、また、「正しい」読解を求められることを通して、読み手のオリジナリティや自発的な知的活動は、すべてある一定の在り方へと矯正されていく。言い換えれば、「読む」という行為を通じて形成されるのは、自分で考え行動する人間ではなく、ある規範の遵守を旨とする人間である可能性が強くなる
次に、自分の見えている限りのものがそのストーリーのメッセージであるという場合、読み手に求められるのは、ただなにかを見、感じることである。したがって、先ほどと異なり、今度はすべての読解が「正解」としての地位を有することになる。逆に言えば、なにが間違いであってなにが価値なのか、ということが、多様性を認める中で共有されにくくなる。また形成される人間像として言い換えるなら、こちらは、価値基準を自己のうちにしか持たない、エゴイスティックな人間が形成される可能性が強くなる

第三項理論は、この読み手と文章の二項構造に、外部領域としての「第三項」を導入する。
第三項の定義については、いまだにはっきりとしたものが与えられているわけではない。しかしその出発点は、「あるひとつの読み方が、その文章のすべてを回収しきれるわけではない」という、きわめて平明なところにある。
自分にとっての読み筋は、その文章の唯一のメッセージでない。であるなら、自分の解釈の向こうに、すべてのメッセージを持った「文章そのもの」というものがあるのだと考えることができる。
しかし、私たちには見えている限りのものしか見えないから、その「文章そのもの」がいったい何なのかは、永遠に知ることができない。
逆に言えば、その永遠に到達できない「文章そのもの」の上に、あらゆる読み筋が姿を現しているのである。
ここで、思考実験をしてみよう。もしこの「文章そのもの」の側から、さまざまに現れている読み筋をながめ、比べてみることができたとしたら、どうだろうか。
文章の読み方、というのは、その解釈を通して、読んでいる当人の在り方をも明らかにしてくれる。だから、さまざまな読み筋を比較してながめる、ということは、それが他人の読み筋であれば他者の、自分の読み筋であれば自己の在り方をながめるということに他ならない。当然、その中で、他者や自己について、新たな気付きを得ることもあるだろう。つまりこのとき、「読む」という行為を通して、読み手は自己や他者への理解を深め、自己の在り方を変容させるきっかけを得ることができるのである。

「読む」という行為を通した、自己変容の実現。第三項理論が目的とするのは、まさにこれである(と、私は考えている)。


あくまでSNS上での話にはなるが、おおむね第三項理論に関しては、否定的な意見が目立つ傾向にある。

否定的な意見を見ていくと、「第三項理論」という教説は、どうやら「少数派」というよりも「異端」というふうにみなされているらしい。
また、否定派の意見は、およそ以下の2パターンに集約される。
・第三項理論の有用性への疑い
・国語教育部会の閉鎖性への嫌悪感

つまり、第三項理論には、理論それ自体への批判だけではなく、理論を信奉する人々の姿勢に対しても否定的な目が向けられているということになる。

それぞれに詳しく見ていくと、第三項理論の有用性については、とりわけ「教育実践をもっと示せ」という声が大きいようである。
もちろん、今日に至るまで、第三項理論に基づく教育実践が全く無かったわけではない。しかし、SNS上では、理論先行の報告に陥りがちであり、第三項理論の有用性や、あるいや考察材料としての議論を行うには至っていないというように見られている。
その理由としては、そもそも第三項理論自体が、そのフォロワーにおいても理解されきれていないという事情がまず指摘できる。現状、第三項理論に関しては提唱者の田中実の言説を頼りにするほかなく、また田中の言説も、決して分かりやすいものではない。また他の主要な第三項理論の論者についても、田中の言葉遣いを引き受ける都合もあってか、分かりにくい表現が増えてしまう傾向にある(話題となった画像の文章も、そうした事情の上にあるものと考えられる)。現在、広島大学の難波博孝氏を中心に、「田中実を離れた第三項理論」の在り方が模索されている。したがって、第三項理論の実践はむしろこれからであり、その分、文学研究・国語教育両面からの実践報告を十分に提供し、議論に寄与しなくてはならないだろう。

国語教育部会の閉鎖性、そしてそれに付随する第三項理論へのウンザリ感も、問題はまさに先に述べたような第三項理論の在り方にあると考えられる。
第三項理論の研究へと国語教育部会が舵を切るにしたがって、第三項理論以外の立場が徐々に排斥されていった、あるいは、それ以外の立場の人間にとって議論の出来る環境ではなくなっていったことが、SNSのコメントから伺える。つまり、第三項理論への偏重が、国語教育に関する議論の幅を狭め、また国語教育部会の孤立化を深めている、ということらしい。
現在、第三項理論については、学会誌『日本文学』で定期的に特集が組まれている。しかし、今述べたような状況の中、とうとう「第三項理論を『日本文学』誌上で取り上げること自体をもう止めてもらいたい」という意見が出るにまで至っている。確かに、他の立場に対する議論に対しての姿勢が悪かったという点で、国語教育部会には反省の余地があるのだろう。しかし、立場の先鋭化がこうしたあらたな排斥をもたらすことは、国語教育部会だけではなく、結局日本文学協会や、人文学全体の損失だとも思う。


先ほども述べたように、第三項理論は、難波氏も指摘するように、ここからの再整理とともに始まっていく。それにともなって、有用性への疑いも、部会の閉鎖性も、次第に解消されるものと考えられる。
広汎で有意義な議論空間をどう構築していくか、という問題に、どれだけ真摯に向き合えるか。当たり前のことのようだが、だからこそそれが一番大事な問題意識と言えるのかもしれない。

なお、私自身は文学研究にも国語教育にも素養のない、完全な門外漢である。
理解に不備などあれば、ぜひご指摘をいただけると幸いです。

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