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ブレシア 音楽のある5日間

 旅すると、空を仰ぎ、風を感じることが多くなる。そんな時、私はフランス・クリダ先生のことをしばしば思い出す。
 それは熱情ソナタの第3楽章に差し掛かった時だった。クリダ先生は高らかに言った。「風を感じて。ベートーヴェンは風の中にいるのよ」と、並列したピアノで弾き始めた。すると音楽は、その場の空気もろとも、ヴァルキューレたちが岩山に向かうような緊迫した臨場感がみなぎった。いつもそうだったが、先生の指からは風が起こり、気流が世界を作り出していた。

 彼女がアントワーヌ・ブールデルの彫刻を指していたのは言うまでもない。ブールデルは40歳を過ぎてから、作者自身を投影したかのようなロマン派的な表現に傾倒し、死の年まで40数点のベートーヴェン像を作り続けた。これらは《風の中のベートーヴェン》(Beethoven dans le Vent) と題された。
 コロナ禍直前のパリで、私はブールデルの作品を通じてベートーヴェンに触れ、亡き師に再び会うことができた。「あなたは今のままではフランス・クリダの模倣になってしまうから去りなさい」という最後のレッスンでの言葉が甦った。あの頃は現実が神話と交錯していたのかもしれない。

Antoine Bourdelle "Tête de Beethoven dite Hébrard" [1901, Musée Bourdelle]
「私は人類のためにこの栄光のワインを搾り出すバッカス」

 今、ヨーロッパの光景が3年ぶりに目の前に広がる。ミラノをはじめとするヨーロッパの都市では、治安の悪化がSNSを通じてさまざまな形で伝えられているが、ブレシアの旧市街に立つと、夏の青空とアルプスから吹く心地よい風が音楽となり、素晴らしい1週間の始まりを感じた。

 ミラノ中央駅からブレシアまでは鉄道でちょうど1時間。ミラノに次ぐロンバルディア州第2の都市で、古代よりアルプス以北との交易で栄えた歴史を持つ。その堂々たる景観ゆえ「イタリアの雌獅子」とも称される。
 ユネスコの世界遺産に登録されたものも含め、市内には古代から中世にかけての遺跡や歴史的建造物が多く、今回のマスタークラスも4世紀に建てられた教会と回廊からなるコントラーダ・サン・ジョヴァンニ (Contrada San Giovanni) が会場となった。

第6週は J. Rouvier, T. Hoshino, P. O'Byrne
各教授と共にピアノコースを担当した。
熱気の抜けない6番レッスン室で、耳を凝らし、
ひたすら音を磨き続けた思い出は忘れない。

 Talent Summer Courses and Talent Summer Opera & Festival はヨーロッパに数ある夏期講習会の中でも存在感を発揮している。今年で8回目だが、コロナ禍のパンデミックでも「うろたえずに開催した」という主宰者パオロ・バリエリ氏の積極的な姿勢が、講習会全体に響いている。
 45分レッスンが4回、マスタークラスの形で行われ、学生には練習も十分できる環境が用意されている。他の教授と合同で行うクラスコンサートや、オーディション、選抜者によるコンサートもカリキュラムに含まれており、濃密な週を過ごすことになる。今回私が指導した7人の受講生の中から、SOLOIST&ORCHESTRA CONCERTO AUDITION と SOLO CONCERTO COMPETITION の受賞者が出て、奨学金を獲得し、最終日にはオーケストラと共演することができたのは幸運だった。
 参加する学生たちの年齢はさまざまだが、個々にとって素晴らしい成長の機会となり、全員が音楽家としての幸福感と誇りを得ただろう。

Master Orchestra とのコンチェルトコンサートは
休憩なしの3時間に及んだ。Bravi!

 27年ぶりにジャック・ルヴィエ先生と再会することができた。夜が更けていたにもかかわらず、私たちが広場で夕食を楽しんでいると、軽やかに加わってこられた。お誕生日席を指して、「皆にご馳走しなければならない席なんだ」と冗談を言われたのがなんとも可愛らしい。そう、彼はチャーミングだった。
 第1回浜松国際ピアノアカデミーでのレッスンはわずかだったが、ルヴィエ先生の一挙一動が私の心には鮮やかに残っている。こうして同じマスタークラスで教える立場になるとは、まさに夢のような出来事だった。人生に教えや変化をくださった人々が去っていく中、生きている師と再び交流できることの喜びは何物にも変えられない。

Mauro Iurato (左), Jacques Rouvier (中央),
Paolo Baglieri そして筆者 (右)

11/8/2023, Brescia (Italy)

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