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『大聖堂』の序文 損なわれてしまった男女の愛


 『大聖堂』(レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳)を読んでます。 

 レイモンド・カーヴァーさんの短編集は、良い作品が多いらしいです。この本も短編集。いくら日本語訳されているとはいえ、アメリカ人作家が書いた本は日本のものと比べて読みにくい。その点、短編集は読みやすくてありがたいです。頑張りたくないですよね。

 この本は序文から始まります。この序文を書いているのはテス・ギャラガーさん。カーヴァーの二人目の妻だそうです。カーヴァーは若くして結婚し子供を産み、仕事に追われます。そして自己破産やアルコール中毒を経て、離婚します。自分とは比べ物にならない、人生の大先輩ですね。カーヴァー先輩。私は、カーヴァーの「自分はアメリカの一庶民に過ぎない」という地に足着いた姿勢が好きです。

 この序文で、ギャラガーがカーヴァーの作品の魅力を語っています。

職にあぶれ、来る見込みもなさそうなチャンスを待ち続けている男たちの生活や、男たちからその鬱々とした欲求の延長物のように扱われることに孤独を感じる女たちの姿を、彼は寒気を感じさせるほどの正確さをもって描きあげた
P.10


 この一文を読んで、私もまた決して明るくはない気分になりました。そりゃあ、明るい気分にはなれないっしょ。

 男たちは、仕事をして生活の糧を獲得し続ける必要がある。女性たちだってそうですね。職にあぶれることもあるし、今の職に就いていて良いのかと自問自答することもある。良い職に就いていても、いつか仕事を失うかもしれないという恐怖は消えない。

 それでも、いつか来るはずのチャンスを信じて黙々と働く。目立つ成果がなくても、誰にも評価されなくても。その日々のしんどさと、そこから生じる鬱々とした感情。そして、それらを処理することに手一杯であるため、男たちは愛することから阻害されていきます。

 しかし、それを単純に責めることは難しい。仕事をして生活の糧を稼ぐことと、愛するということは、あまり接点を持たない。それどころか、時には相反するものであるかもしれない。なぜなら、誰かを押し退け上へ行くことと、誰か一人をずっと愛することは、ほとんど真逆の能力を求めるからです。

 だから男たちは、女性たちと愛し合うのが困難です。どうやって愛すれば、あるいは愛されれば良いのか分からない。その状態のまま年齢を重ねていくことが、ほとんどなのではないでしょうか。本当に誰か一人とずっと愛し合える人なんて、ほとんどいないのでは。何年も付き合っていたって、結婚していたって。それってけっこう寂しいですよね。私は寂しい派です。

 では自分はどうすれば良いのか。素敵な女性と、愛するとはどういうことなのか学んでいくしかなさそうです。競争を勝ち抜くことと、ゆっくり一人と愛し合うこと。いつか両方を実行できるようになりたいです。あるいは、両者の接点を見つけたいです。誰か一人とずっと一緒にいることができなかったり、若くて可愛い女性をいつまでも追いかけたり。そういう人間になるのは、私には向いてないんだと思います。なれないだけかもしれないですが。

 そのためには、まずどうすれば良いんでしょうかね。パッと思いつくのは、職業を何にするかよく考えることと、働く際にどういうスタンスを取るか考えることですかね。どちらにせよ、自分をシステマチックにさせようと無理をし過ぎない。業績原理と上手く折り合いをつける。ポジティブな心の動きを示すような、仕事や働き方をする。これらが重要な気がします。

 日頃から、「頑張る、無理をする、自分に厳しくする」と「自分のペースでやる、時間をかける、楽しむ、楽をする、本心に敏感になる」をうまーく共存させたいです。

 先ほど引用した部分を、女性目線で語ろうとは思いません。それをするには、私には経験が足りないですから。結局、気長にやっていくしかありませんね。

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