11/16 日常が続いてほしい

今日は仕事を早く上がることができた。
帰り道、暗くなり始めた空の下で、居酒屋に連れ立って歩いたり、足早に駅に向かったり、同僚とおしゃべりしている人たちを追い越したりしながら生ぬるい夜空を見上げ、きっとこのまま何が起ころうと、私は(私たちは)変わらずに日常を守ろうとし続けるんだろうな、と不思議な気持ちになった。

それはもちろんウクライナだろうが、ポリネシアだろうが、月に住むようになったら月面だろうが、変わらないのだろう。人々は当たり前に自分の日常をやっていて、その中に事件が起きる。日常を守ろうとする中で意図的に守られるものもあると思うし、守ろうとせずとも守られるものもあるのだと思う。どちらにせよ、人は続くことを志向するものなのだと、そう思う。今も、自分も。

物語の中のキャラクターの、特に主人公のひたむきさに昔から憧れてしまう。
私たちは、どうしても「日常」をやらなければならない。食べて、寝て。それをやらなければならないのは短命な「人」にとってはたまらなく不便で、しかし同時に短命でもない「人」にとってはたまらなく切実だ。
「生きているだけで価値がある」のではなくて、「生きていることに価値がある」のだと思う。ただ、私たちにとってそれは当たり前なので、生きることの理由にはなりづらい。それは、この上なく恵まれているのだと感じる。

戦争は、非情だ。
最低限の価値すら守られない。

この侵攻が始まった日のことははっきりと覚えている。
2022/02/24、珍しい在宅勤務をしていた私は、TLがものものしいのを見て安保理のライブ配信をつけた。ほどなくして、その隣の窓に事実上の宣戦布告の映像をも並べることになったのである。ショックだった。創作物の理不尽でもなく、現実で、リアルタイムで、何が悲しくてこのYoutube liveを並べることができてしまったんだろうか。
たった数時間前に始まってしまった侵攻を、3分前に始まってしまった侵攻演説を、その動く車列の映像を、ほぼタイムラグなく、見ることができてしまう現在。しかし何一つとして抑えることができないままに、ただ暴走した機関車を見送る現実。
月並みな言葉だけど、どんなに平和とは儚いものなのだろうと、これほどまでに実感させられたことはなかった。

紛争は各地で続いているけど、傲慢にも、自分は戦後世代だと思って生きてきていた。
自分が生きているうちに、しかも国連の常任理事国が、一方的な暴力を振りかざす光景が、しかも建前もとうてい固められていないようなままで、こんなにも明確に「敵」であることを意識する瞬間を、知りたくはなかった。

本当の事を言うと、実はこの日に在宅勤務を決めたのは偶然ではなかった。それが可能だったのではあるけれど、大きな理由は「何か動きそうだったから」在宅にしたのだ。始まる前は、それがファンタジーか何かだと思っていたのでは、と思うほどに現実感は持っておらず、でももしかしたらそうかも、と不謹慎にも非日常を見るきっかけとして考えてしまっていた。教科書に載るかも、と思ってしまったのだ。つまりこれは現実である。それを、WEBの世界でこれほどまでに痛感したこともまた、鮮烈な記憶になってしまった。

9.11の時はTVだった。私はまだ幼かったので事の大きさをあまりわかっておらず、映画みたいだな、とぼんやり見ていたことを思い出す。なじみ深い媒体に、不明瞭とはいえ比較的信頼できるソースを持って、それを専門としている人たちの口から、流れてきてしまうことのシームレスな、疑いの余地が少ない、その残酷さ。

今日はポーランド領内へどちらかのミサイルが落下、2人が亡くなられたそうだ。

今日はいい色の日らしいので、爪の色が可愛いみたいな話をつらつらと書こうかなとか思っていたのだけど、ちょっと耳に入ってくるニュースが物騒すぎて、そのことばかり考えてしまった。

早くこの侵攻行為を終わらせる決断をしてくれることを、心の底から願っている。

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