半壊の家

半壊の家を出て、アフリカで出稼ぎをしていた私は、ナイロビからジャイアントキリングを起こす

こんにちは。ケップルアフリカベンチャーズというVC(ベンチャーキャピタル)で投資家をやっております、山脇と言います。妻子を連れてケニアの首都・ナイロビに住み、日本のVCとしてアフリカの企業に投資しています。(明日イベントをやります)
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「アフリカにはビジネスとしての可能性がある」と確信しており、皆さんにもこの思いを分かっていただきたく筆を取りました。まずは私自身の話からーーーーー。

「半壊」

保険会社から来た封書を開くと、見慣れない字が書いてあった。普段ニュースくらいでしか目にしない単語を、自分宛にきた封書で見かけるのは奇妙な気持ちだ。


私が12歳の時、母や兄弟と住んでいた家は、亡くなった祖母から10年前に引き継いだもので、築70年は軽く経過していた。石膏の外壁は茶こけて剥がれおち、家全体が右左に傾いて、玄関の木製の引き戸はピクリとも動かないので、開け閉めの際には枠から一旦外してはめ直さないといけない。こんな調子だから、東日本大震災が起こった後、家の半分の所有者である伯母は不安を感じ、保険会社に電話をしたのだ。
保険会社から人が来て家の外側を見て回った。これはかなりダメージ来てるなぁ、と業者はうんうん唸っている。私は「いや、それ古傷ですけど・・・」という言葉を飲み込んだ。
1カ月後、保険会社からの封書が来た。住み慣れた我が家への評価が「半壊」だった。

「半壊」の家に住むくらいなので、我が家の家庭、特に経済環境は良くなかった。中学校の時はワルの仲間に入ってしまったが、うっかり生徒会長になってしまったことをきっかけに更生した。「高校に行かせるお金がない」と母に言われ、私立高校から全額奨学金を得てなんとかした。大学受験は参考書を学校から借りて独学で乗り切った。大学の学費は学校側から学費減免をもらい、かつ二年間の「出稼ぎ」でどうにかすることが出来た。

「出稼ぎ」


さて、私はどこへ出稼ぎに行ったのか?それが私とアフリカとの出会いだ。
実は大学受験に失敗し、第一志望の東大にあっさり落ちて、東京外大に入学した。「お金があれば予備校に行けたのになぁ」と、言い訳がましい思いを抱えていた。そんな折、大学の生協で「武装解除」という本を手に取った。ちょうど私が入学した年に教官として着任した伊勢崎賢治氏が、国連の代表として内戦直後のシエラレオネに赴き、現地ゲリラを解体し社会復帰させた様子を描いた手記だ。
そこにはアフリカの内戦の凄まじい有様が克明に描かれていた。何万人もの市民が虐殺され、ゲリラ軍が首都を制圧、ゲリラに対抗した自営団も次第にゲリラ化し住民を襲う。首都が制圧されるなんてこの日本で考えられるだろうか?
1ページめくるごとに、「お金があれば予備校に行けたのになぁ」と考えていた自分が恥ずかしくなった。同時に、「自分の目でアフリカを見なければならない」という使命感が自分の中で芽生えてきた。お金をかけずに行く手段として在外公館派遣員という、若者を世界中の日本大使館・領事館へ派遣する制度を知った。応募書類には「とにかくアフリカに行きたい。それ以外興味はありません」と書いた。
思いが通じたのか、半年後にはボツワナ共和国の首都ハボロネに降り立っていた。折しも日本大使館が存在せず、初代館員としてその開設を担うことになった。
ボツワナはダイヤモンドを基幹産業とした中所得国で、政治・経済ともに安定したアフリカの中では稀有な国だ(一時、国債の格付けが日本を上回って話題になったこともある)。経済的に余裕があるからか、非常にゆったりとした国民性で、迅速さがウリなはずのDHLが2週間以上配送をさぼったりするくらいだ。
そんな国民性だから大使館の職員は皆いつも現地の人の働きぶりにイライラしている節があった。「あいつらは仕事が遅い」「こちらの指示をまったく理解していない、バカだ」と。しかし、よくよく観察してみるとそれほど単純ではないことが分かる。指示している側の英語のレベルが低いので、そもそも正確に意思疎通が出来ていない。そして、現地スタッフのやった仕事に対して明らかにバカにした態度をしてくるので、次第にやる気もなくなってくる。「バカだ」と考える大使館職員の考え方が、相手が「バカ」であるという現実を再生産しているようだった。
大使館が調整を行っていた政府開発援助もそうだ。あるプロジェクトでは農協に供与された数十台のトラクターが錆びついたまま放置されていた。曰く、「タダでもらえたんだから良いでしょ。また今年も何かくれないかな」。援助という言葉が使われた途端に、「援助される側」というマインドセットを生み出し、それに見合った行動が生み出されていく。ザンビア出身の著名エコノミスト、ダンビサ・モヨは著書『Dead Aid』(邦訳「援助じゃアフリカは発展しいない」)でアフリカにおける開発援助は汚職を促進し、国民の自立心を破壊していると主張した。開発援助を十把一絡げにすることは出来ないが、やはり援助という枠組み自体が相手を「援助される」というレッテルに閉じ込めてしまう感は否めない。大使館にいた当時の私はそういう構造に気付きもせず、現地の人たちを正直言って「無能で」「かわいそうな人たち」という目で見ていた。

「アフリカからの逆襲」

しかし、ビジネスの視点でアフリカを見始めた時、違ったアフリカが顔を出した。ボツワナの大使館を離任してから一年後、私は再びアフリカに渡航し、日本人としてケニアにナッツ産業を興した佐藤芳之氏がルワンダに作ったベンチャー企業で短期インターンをしていた。微生物を培養し、土壌活性化や水質改善に使える液体を製造する企業で、そこで工場長として働いたルワンダの青年がいた。
貧しいルワンダでまともな英語教育も受けていなかった彼は、最初は掃除係として雇用されたらしい。そこから一生懸命英語を覚え、エクセル等のパソコンスキルを身に付けたことで、わずか数年で工場長に抜擢されたのだ。何故そんなに頑張れるのか、気になって彼に聞いてみた。「仕事が面白いからさ。何か一つ出来るようになると、また一つ面白い仕事を任せてもらえるんだ」と、彼はすこしクセのある英語で答えたのであった。彼の笑顔は、それまで私が抱いてきた「無能で」「かわいそうな人たち」というイメージを粉々に砕いたのだった。なんという向上心。「半壊」の家に住み、経済的に難しい環境にありながら必死で奨学金を稼ぎ、高校・大学に進学した自分自身と共鳴する思いもあったように思う。この人は、私と同じだ。
この時から、私はアフリカでビジネスを興すということを考え始めた。総合商社に入り、米国でのMBAを経て、今はナイロビの地でCrediationというFintechスタートアップの経営と、アフリカに投資する日系VCであるケップルアフリカベンチャーズ(Kepple Africa Ventures)での投資活動を行っている。
自分の出自と現在のアフリカでの活動は一本の線でつながっている。それは「やれば出来る」というマインドセットだ。何かを与えられるのではなく、自分自身で意志を持って未来を切り開いていく。そういう意志を持った仲間と共に仕事をすることは、至上の喜びだ。アフリカのスタートアップの設立者達は、私がこれまで大使館・総合商社・MBAで見て来た人たちに全く劣ることのない能力を持ち、そして、ほとばしる程の強い思いを持っている。


弱い者が下馬評を覆して、強い者に勝つことをジャイアントキリングという。「貧困」「紛争」「援助」というレッテルに色どられたアフリカから、世界に通用する、世界を制覇するようなビジネスを作り出したいと私は強く思う。アフリカから、強いマインドセットを持った仲間たちと共に、壮大なジャイアントキリングを演じたいと思う。

(そんなジャイアントキリングの始まりを、このイベントで目撃せよ)
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