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大人になるということ

博多駅前、信号が青に切り替わって、大人になったな、と呟いた。どういう意味、と恋人が尋ねる。どういう意味だろう。自分でも分からないけれど、3年前、友人と卒業旅行で博多にやってきたときの私とは違う、大人の私がそこにいた。それは恋する人ができたとか、定職に就いたとか、突然その職を投げ出しても暫し生き延びられる程度の蓄えができたとか、そういう外形的な事実を捉えてこぼれた感慨じゃない。価値観が、景色が変わったのだ。余生を生きている感じがする。もうずっと。酸いも甘いも、経験し尽くした気がする。

数年前までは、人生の主人公は私で、世界の中心は私で、私は常に観られる側であり、評価される側であり、愛され称賛される可能性を秘めた対象であった。だからこそ、自意識に悩み、声が震えたり、他者の視線を恐れたり、苦悩の末に死を選んだ人たちに共感したりしていた。生きていることの意味がわからず、自分の価値がわからず、こうして生きたことの苦しみをただ何かの形でこの世に残したいと思い、詩を書いたり、小説を書いたり、歌を作ったりしていた。死ぬことがただ、怖かった。

博多駅前、懐かしい都会的な空気を吸い込みながら、そんな過去の私を、遠くとおく感じた。今、私は世界の隅っこを漂う塵でしかない。塵のような儚い存在の自分を許せてしまう。なぜなら、塵は塵でも、私には目がある。耳がある。美しいものを美しいと感じられる心がある。私は常に観る側、愛する側。この世にふらっとやってきて、面白いもの、楽しいもの、美しいものを味わい尽くして、ふわりと消えていく、そんな存在だと、自分を捉えるようになった。そうしたら悩みも苦しみも綺麗さっぱり消えてしまったのだ。

そんな風に変わったのは、もがいた末に夢を叶えたり、自分の限界を知ったりといった経験を重ねたこともあるが、恋人との出逢いも大きいように思う。彼は物語を愛する人で、映画や小説に触れては、感じたことをこまめに記録することを習慣にしていた。彼のノートを捲りながら、ああ、この世には私の知らない世界が沢山隠れていて、それらを一つひとつ、手にとって、丁寧に眺めながら暮らすことは、なんて幸せなことなのだろうと思いついたのだった。

大人になるということが、どういうことなのか、25になってもまだよくわからない。だけど自意識に悩むのが思春期の心性であり、大人の心がその対極にあるとしたら、やはり今の私は、少しだけ大人に近づいたのだと思う。

今でも時々、生きていることの意味がわからず、泣き出したくなることがあるけれど、もう昔のように、塞ぎこむことはないと思う。それは私の心根が健全である証だし、この健全さを、私は守っていかなければならないのだと思う。