海と溶け合う太陽

シェル

 暗闇に光る液晶画面を眺めながら、僕は首を傾げた。どのアカウントもとうとう黙り込んでしまったのだ。
 異変に気づいてあちこち見て回った時にはもう遅かった。すべてのサイトは更新が止まっていた。
 僕は何か月かぶりにカーテンを開けた。夏空には雲一つなく、世界は退屈な平和に包まれていた。アパートから見える裏庭に繋がれていた犬の気配もない。

 ああ僕は本当にひとりになってしまった。
 いや、生まれた時から、僕はずっとひとりで、熱に浮かされながら、他者という幻を見ていたのかも知れない。騙されていることに気づいた僕はやるせなく死んでいくのだ、やれやれ無意味な魂だ。

 僕は不気味なパソコンの電源を落とした。初恋のあの子。憧れていたロックバンド。生に僅かな喜びを与えてくれていた個体たちの名前が何故だか思い出せない。
 部屋を見渡せば、間取りや、家具の形がとてもシンプルで、違和感がつのった。こんな四角い世界で、命をだらだらと消費していたなんて。すべては未視感に覆われていた。
 いつからこんな生活を始めたのか、それまで誰と暮らしていたのか、僕は誰なのか、もう何も思い出せなくなっている。
 僕は洗面所に移動して、鏡を見た。そこには知らない男が映っていた。二十代前半、くしゃくしゃの黒髪、睨むような視線。首筋は白く、そり残しの髭がなければ女の子みたいだ。
 見覚えが無いとはいえこれは紛れもない僕自身なのだけど、自分はこんなに貧弱な身体をしているのかと思うと情けなくなった。  
 台所に行ってみた。冷蔵庫を開けると何も入っていなかった。ああ、お腹が空いた、だけどこの茹だるような夏の日差しを浴びながら、食べ物を探しに歩き回る気力なんて僕には残されていない。
 僕はしばしの間、深い憂鬱と無気力と、自己憐憫に沈んでいた。

 そこへ電話のベルが鳴った。
    
 僕は自分に電話をかけてくる他者がこの世にまだ存在していたことに、驚いた。
 受話器をとると、柔らかい声とともに、甘い香りがふっと漂った。
「ねえどうして返信をくれないのよ、携帯にかけてもつながらないし、心配したんだから…」
 僕は何か言おうと息を吸い込み、言葉を喉に詰まらせた。
「いいわ私だって、もうあなたとの約束の事なんて私、正直なところどうでもいいのよ、勝手に死んでちょうだい」
 女はそう騒いで、僕の返答を待つこともなく電話を切ってしまった。
 勝手に死ね、とは失礼な女だと思った。約束とは何のことやら皆目見当がつかない。そもそも彼女の名前も姿も僕は忘れてしまっているのだから。ただ柔らかい声から漂った香水の匂いだけが、僕の人生と彼女の人生が過去に何らかの接点を持っていたことを証明していた。

 夜、僕は街に出た。
 公園には花火をする子供もいなければ、犬の散歩のおじさんもいなかった。信号機は青く点滅していたけれど、渡るのは僕だけで、そもそも車なんて一台も走っていない。
 世界は僕と、もしかしたら電話の彼女と、ふたりだけになってしまったのかも知れない。
 生ぬるい夏の空気だ。だけど生命の匂いがしない。空には欠けた月が浮かんでいた。
 寂しいとは感じなかった。ただ、酷く身体に悪い飲み物が飲みたい。着色料まみれの真っ青なアイスが食べたい。それと同じ感覚で、さっきの女に会いたいと思った。
 恋をしたわけではない。この世に他者が彼女しかいなくなってしまった以上、僕が彼女に会いにいかないことには、何も始まらない。そんな予感がしたのだ。僕の名前や、この奇妙な街の仕組みを知っている可能性がある他者は、今のところ彼女だけなのだから。

 彼女と僕は特徴のない公園で、当然の成り行きのように再会した。というのも、僕が公園のベンチに座ってうとうとしていたところに、ひとりの女の子がふらりと現れたのだ。例の香水の匂いを漂わせて。
 傷んだ黒髪を三つ編みにして、小さなリュックを背負っている。声を聴いたときの印象と違い、僕よりも歳が若いような気がした。黒目が大きくてくりくりしているが、他に顔の目立った印象は無かった。会うなりわっと泣き出すものだから、僕はどうしていいのか分からなかった。
 僕が「大切なこと」を何一つ覚えていないことや、この街が空っぽになったしまったことについて、彼女は丸い目を潤ませて「あんまりだわ」と嘆いた。
 彼女はすべてを覚えていた。彼女自身のすべて、僕のすべて、ふたりで過ごした僅かな日々を。
 僕は、そして彼女も、もとの場所と違う世界へやってきたみたいだ。彼女の記憶によれば、僕らはもといた世界を酷く憎んでいたらしい。繰り返される無駄な日々、拭えない不安感、纏わりつく憂鬱。世界に拒まれ続けていたふたりは、苦悩の末に、ありふれた答えを見つけた――

 「僕らはきっと上手に死んだんだよ」と僕は天気の話でもするかのように言った。
 「ここは天国なんだ」
         
 彼女は記憶のない僕にいろんなことを教えてくれた。
 僕の名前や、小学生の頃悩まされていたあだ名。僕が好きだったコーヒーの種類や、憧れのバンドのことも教えてくれた。(初恋の女の子の名前は、生憎彼女は知らなかった。)
 ふたりで特徴のない街を旅した。海があって、小高い丘があって、丘の上は林になっていた。僕らはよくその丘に登っては、遥か彼方に広がる水平線を眺めた。彼女は僕が初めに抱いた印象よりずっと優しくて、繊細な気遣いができる女の子だった。怒るとちょっと怖いけれど。

 そうした幸せな生活を続けていくうちに、彼女の方が幸せに耐えきれなくなってしまった。
 彼女の気持ちが安定しないのは、仕方のないことだった。こんな天国のような街にやってきても、彼女の悲しみにまみれた思考回路は治らなかった。
 死にたい、もう一度、心中しようと彼女は言った。
  でも僕は、生きてるか死んでるかなんて問題じゃないじゃないか、だってこの世界に僕らは今二人きりさ、誰も僕らを煩わさないよ。学校もない、お金もない。まあカラスも、野良猫もいないのはちょっと物足りないけれども、夜風はやさしいし、海辺の波しぶきは見飽きないし、もう少しここにいるほうが、真っ暗闇の世界へ落ちていくよりも退屈しないで済むさ。と答えた。
 でもね、と彼女は言う。私は自分の名前を知っているわ。あなたみたいに、自分の存在や、過去の記憶を消すことができなかったのよ。そしてそれがとても辛いの。自分がこの世に――いったいここは何処なのか分からないけれど――存在しているということが。
  彼女はそう言って泣きじゃくった。僕は煙草に火をつけた。確かにそう、僕が今とても気楽に過ごせているのは、嫌悪していた社会や他者の存在が消えたことで はなく、僕という存在自体を忘却していることに起因しているのかもしれない。本当に僕を苦しめていたのは社会や他者ではなく、僕自身だったような気がする から。

 すべての記憶を持ったままこの世界に迷い込んでしまった彼女は、かなしみから抜け出すことができずに、とうとう死んでしまった。
 
 僕はひとりになった。
 
 名前を呼んでくれる人も、昔の僕の口癖を教えてくれる人もいないから、僕はまたそれらを忘れてしまった。永遠に思い出せないのかと思うと、少しかなしい。
 彼女の亡骸は、嫌な臭いを放ち始める前に、土に埋めてしまったから、僕はもう彼女の声を聴くことはおろか、三つ編みの形や香りを思いだすこともできない。
 寂しかった。
 時々街を探検してみたが、単調な道路が続いているだけで、とりわけ面白い建物もなく、信号は無意味に点滅を続け、踏切のベルはモノを言う気配もなかった。うだるような暑さが和らいでいく気配がした。夏は終わりに近づいているのだ。
 僕も、終わりにしたいと思った。
 この世界は確かに居心地が良かったが、それは僕の名前を知っている人が存在していたからだ。
 
 僕はある夜、彼女が死んだ林へと向かった。いつか彼女が飲んだ液体が入った小瓶を掘り起こした。少しだけ目を閉じて、彼女の目や鼻の形を思いだそうとした。
 僕は小瓶の中身を飲み干した。