火葬という優れたシステムよ

今年5月、母方の祖父が亡くなった。
もちろん悲しかったけれど、ずっと病気をしていて、認知症も重かったので、仕方ないな、という部分もあった。
亡くなる一か月ほど前に、お見舞いにいけていたのでよかったと思った。

亡くなった、という連絡を受け、翌日の朝はやくに母と新幹線に乗って葬儀場へむかう。父は遅れて来る。

遺族の控え室のような場所に通されると、ふつうに祖父の遺体が置いてあったので、驚いてしまった。
さらに、末期の水や死装束を着せるなどの儀式で、祖父に触れる機会も何度かあり、少し戸惑った。
死化粧前の祖父は、安らかな顔とは言いがたく、わたしはすこしこわかったのだ。

わたしは死んだ人を見るのは、これがはじめてだった。今まで近しい人が亡くなったことはなく、わたしはもう22だというのに、人の死に関してあまりにも無知だ。

お通夜ではほとんど泣かなかった。
けれども、葬儀ではたくさん泣いてしまった。
祖父の死は仕方のないものだ。そう思っていたはずなのに、もうおじいちゃんに会うことはできないのだという思いが溢れ、涙は止まらず、火葬場に着くまでわたしは泣きつづけた。

それまでわたしは、火葬というシステムに疑問を持っていた。ついこのあいだまで生きていた人の肉体を焼き尽くし、残った骨を拾うなんて、悪趣味でグロテスクじゃないか。

けれど、骨になったおじいちゃんをみて、わたしはなんだかすっきりしたのだ。
悲しいことに変わりはないけれど、やっぱり仕方のないことだと思った。もう二度と肉体が戻ってくることはない骨を見ることで、おじいちゃんの死に対するわたしの気持ちに、すこし区切りがついた。
それに、骨はなんだかチョークみたいで、すこしかわいかった。

火葬は、これまでもたくさんの人の気持ちに、程度の差はあれど、ひとつ区切りをつけてきたのではないだろうか。
そう考えると、火葬というのはなんて優れたシステムなんだろう。感染症やらスペースの問題だけではなくて。

今だって、おじいちゃんがいないことは悲しい。だけど、やっぱり人はみんな死んでしまう。すべてのいつか来る終わりに、心のどこかでいつも備えて生きていかなければならないのかもしれない。

#エッセイ #コラム #死

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