さいきんのこと

ずいぶんとながらく更新していなかった。
その間に2019年になったし、23歳になったし、大学を卒業したし、新年度になったし、令和になった。
とはいえ、なにも変わらない。
節目節目で次こそなにか変わるのではと
人は期待してしまうけれど、
「自分」はそう簡単には変わらない。

今わたしがなにをしているかというと、
大学を卒業したというのに定職についていない。
2020年の東京オリンピックが決定した2013年、
7年後のわたしがなにをしているかなんて、ちっとも想像つかないなあ、
と思っていたけれど、
まさか2020年が来年に迫った今でさえ、
オリンピックの頃になにをしているか皆目見当がつかないなんて。

とはいえ、最近はそれなりにうまくやっているのだ。
友達に紹介してもらったへんてこなバイトは楽しいし、
ほかにも徐々にやる気が起きてきて、
なにかしらやれそうな気がする。


ところで最近、夢日記をつけている。
夢日記で検索すると、候補に怖い話、とか、
気が狂う、とか出てくるので
びびりながらつけている。
今のところ気は狂っていないと思う。
気の狂った人間が、自分が狂っていることに気がつくのかはわからないけれど。

わたしはもともと、
夢をほとんどみない(というか憶えていないだけなんだろうけど)タイプだった。
けれど、夢日記をつけるようになってから、
夢に対する意識が強くなったのか、
かなりの確率で夢を憶えていられる。
たとえ起きた瞬間に忘れてしまったとしても、
思い出せることが増えた。
なんというか、夢の糸口をつかみやすくなったかんじ。

夢日記をつけてみて気がつくのは、
夢というのは思っている以上に現実から影響を受けているということ。
見たテレビ、読んだ本、人と話した内容、気がかりなこと、そういうさまざまな現実での経験が、
夢になるにあたって少しずつ奇妙に形を変えているだけだ。
夢というのは、案外つまらない。


忘れてしまった夢を思い出せることが増えた、と書いたけれど、
忘れたことをわざわざ思い出そうと、取り返そうとすることは正しいのだろうか。

最近は、なくなってしまったものや、終わってしまったことについて考えることが多い。
解散してしまったアイドル、失くしてしまった指輪、違えた関係、好きだった画家の自死。
とうに整理がついたと思っていたことでも、
思い出すとすこし泣いてしまうのだ。
永遠がないことなんて、ずっと前から知っていたはずなのに。

わたしは歌手の大森靖子さんが好きなのだが、彼女がギターを教えてもらっていた加地等さんからの最後の電話で聞いたという言葉を思い出す。
「幸せなときも悲しみの準備を俺はいつもしているよ」
悲しみの準備。手放す準備。

わたしにはまだたりないのかもしれない。


#日記 #エッセイ


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