WWGMより「真の聖さとは」「解放と福音」「私が見た終わりの日のビジョン」「リバイバルがやってくる」「預言の召し」

「真の聖さ(Holiness)とは」リック・ジョイナー(2018/3/19)
「解放と福音」ケン・フィッシュ(2018/3/13)
「私が見た終わりの日のビジョン」ポール・キース・デイビス(2018/2/24)
「リバイバルがやってくる」リック・ジョイナー(2018/1/29)
「預言の召し」ビル・ジョンソン(2018/1/22)
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19 03月
真の聖さ(Holiness)とは     リック・ジョイナー        2018年3月19日

真の聖さ(Holiness)とは

リック・ジョイナー(モーニングスター3月11日礼拝より)

ある時、ボブ・ジョーンズ師はサタンのトロフィーが並べてある部屋の夢を見ました。そこにはサタンの戦利品がならんでいました。その一つにダビデの竪琴があり、それはワーシップがサタンによって縛られているということでした。確かに今は真のワーシップではなく、パーフォーマンスになっていたりワーシップをワーシップしていたりすることが往々にしてあると思います。神は真の礼拝者が霊とまことをもって礼拝することを回復されようとしておられます。

又、その部屋には「神の聖さ」とかかれたバナーもありました。1800年代の終りから大きなホーリネス・ムーブメントが起りましたが、サタンは素早くそれを抑圧してしまいました。
抑圧されなかった人達もいたと思いますが、多くの場合、真の聖さは律法主義にすりかえられてしまったのです。真の聖さは律法的になることではありません。律法主義は不法を解決する道ではありません。クリスチャンの多くは「聖さ」というと「律法を守ること」と考えてしまい、律法のくびきを負うのです。その結果、教会には批判や裁き、パリサイ主義が満ちてしまいます。詩編には
「 the beauty of holiness 聖さの麗しさ 」(詩編96:9)という言葉があります。それこそ私たちを解放し、神に造られた形へと変えるものです。

ヘブル12:14
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」

ローマ6:22−23
「しかし、今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」

第一テサロ二ケ4:3—8
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあながたに話し、厳しく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、清潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」

第二テサロ二ケ2:13−14
「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主の愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」

これらの聖句から分かるように、神のみこころはまず私たちが聖くなることであり、そうでなければ、神を見る事も、 私たちに対する神のヴィジョンも見ることはできません。

私たちは「私は十字架を信じたときにすでに救われたのではないですか?」と言います。確かに、私たちはイエスの十字架の御業を信じたときに贖われ永遠の命を受けました。しかし、ピリピ2:12には「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」と書かれています。私たちの救いとは、贖われるだけではなく、聖められること、完全に癒され真の姿に回復され、心が一新されることが含まれるのです。そしてこれらは一瞬に起こるのではなく、徐々に変えられて行くプロセスなのです。あなたはボーンアゲインした瞬間に非の打ち所のない者になりましたか?
赤ちゃんでも生まれたときは、どのような人に成長するかはわかりません。それは成長の過程を始めるときにすぎないからです。私たちもボーンアゲインした時はそれと同じです。

伝道者の書8:11
「悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている。」

神は信じられないほど忍耐強く、恵みに満ちておられ、すべての人が救われるのを願う故に罰を下すのを待ってくださいます。自分の犯している罪がずっと罰されないと、「罪をこのまま犯し続けてもかまわないのだ」いう大きな惑わしに陥ってしまう人が大勢いるのです。しかし、罪には常に大きな代価が伴います。イエスは悔い改めた罪人に対しては驚くべき恵みと憐れみを持っておられましたが、自分の義を主張する者たちには非常に厳しかったことを忘れないでください。ですから私たちも自分の正しさを主張し、人に対して批判的であることは絶対に避けねばなりません。イエスの霊は律法的ではなく、私たちも律法主義に陥ってはなりません。真の聖さは律法的に人を縛るものではなく、解放するものです。

神の御前にでるために私たちは完全である必要はありません。かえって神の臨在に入ることによって私たちは完全にされていくのです。私たちは大胆に恵みの御座に近づけるのです。それは良い行ないをした日でも、又非常に悪かった日でも変わりはありません。何故ならば私たちは「自分の義」によってではなく、「イエスの血潮」によって神に近づくからです。しかし主を愛する者は、その愛の故に聖くなることを願い求めます。

今日教えられている最悪の教義の一つは、「巨大な恵み」と呼ばれるもので、多くの教会に浸透してしまっています。その教えはまったく聖書の真理とはかけ離れているて「あなたの霊はもうすでに主と共にあり、あなたの身体は死んでいるのだから、その身体を用いてあなたはどんな罪を犯し続けてもいい。」というのです。ある者に至っては「主の祈りの『私たちの罪をもお赦しください』という部分は必要ない。何故なら、十字架の贖いを信じたのならばすべての罪は既に赦されているから。」とさえ言います。彼らは聖書の真理を知らないのです。

また、その逆の極端さに陥っている教会もあります。「巨大な恵み」の間違った教えを避けるために「『恵み』という言葉を教会で使ってはならない」と言うのです。とんでもないことです。私たちは神の恵みなしには生きてはいけません。ですから私たちはこのような両極端に陥らないように注意せねばなりません。両極端の溝に落ちないように真ん中の真理を歩いていかねばならないのです。

「Aliyah アリヤ」という言葉は、ユダヤ人がイスラエルに帰還することや、エルサレムに上って行くことを指す言葉ですが、それは又、主に従っていくクリスチャン生活を指しています。その道は常に上に上る道だからです。

箴言4:18
「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」

私たちの道はどんどんと輝きを増します。もしだんだん薄暗く憂鬱になっていくならば、どこかで間違った方向に曲がってしまったのです。間違った道がそのまま正しい道にもどることは決してありません。ですから間違ったところまで引き返し、正しい道に戻らねばなりません。それが悔い改めということです。

私たちをご自分の住処としてふさわしい者にしてくださるご計画を、神はノアやアブラハム、モーセや預言者、そして最終的にイエスを通じて教会に示してくださいました。そのプロセスは、もっと上に、もっと神の近くに上っていくことです。私たちがどれほど神に近づくか、どれほど神に似たものになっていくかには、プロセスが必要であるのです。私たちが神の住処になるための7つの段階がモーセの幕屋(神が人々の中に住まわれた最初の場所)の型に示されています。

1.門(イエスが門であり、イエスを通ってでなければ入ることができません。
2.祭壇:十字架による罪の贖い
3.洗盤:聖化
御ことばによって清められます。洗盤については非常に驚くべき点があります。それは女の鏡で造られていて、私たちは身を清め自分の姿を見るように言われています。主は幕屋に関してはすべて細部に至るまでサイズ、デザイン等を指示していますが、洗盤に関してはそれがありません。
そのこと自体が 聖化に対する主のお考えを示しています。「スカートの長さはこうでなくてはならない」とか「化粧をしてはならない」というような規則ではなく、もし私たちが「聖さとは何か」を定義するならば、その途端に聖さの本質を見失うことになるのです。(勿論性的聖さなどの基本的なことは決められていて、「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とガラテヤ5:19−21にある通りです。)キルケゴールは「キリスト教の定義は何か?」と訊かれたとき、それには答えず、「もし私がキリスト教を定義してしまうならば、人々はそれを物差しにしてしまい、イエス・キリストご自身に従うことをしなくなるであろう。」と言いました。聖書にはどのような定義にもあてはまらない、どのような定義より大きなものが顕されています。聖さにある定義を与えてしまうならば、律法主義に陥ってしまいます。あなたが「聖化」「聖さ」について知りたければ、イエスを見てください。あなたが聖くありたければ、主の内にとどまってください。イエスはすべての「〜してはならない」を二つの「〜しなさい」で表されました。即ち「神を愛し、人を愛す」ならば、すべての律法を守ることになるのです。

4.燭台  :啓示
5.パンの机:交わり
6.香壇  :高揚
7.契約の箱:栄化
贖いの蓋は裏も表も金で覆われていました。

出エジプト25:11−12
「アカシヤ材の箱を作らねばならない。長さはニキュピト、幅は一キュピト半、高さは一キュピト半。これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。」

栄光に近づけば近づくほど、私たちは金(神の御性質)でより完全に覆われなければならないのです。私たちの目標は、主の臨在に近づき、神の栄光を仰ぎ見ることによって聖められ、変えられて行くことであり、律法主義によるのではありません。自分の努力ではありません。私たちが努力すべきことは沢山ありますが、聖くなるのは努力によるのではありません。

第二コリント3:16−18
「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられ、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
私たちの目には多くの覆いがかぶさっていて、それらの覆いによって神の栄光さえ私たちの目には歪められて映ります。覆いが取り除かれなければ、私たちは決して主の栄光を見ることも反映させることもできません。
ある人たちはすべての物事を、過去に教会で受けた傷を通して見ます。古い傷が癒されていないので、物事が歪んで見えるのです。主の姿さえ歪んで見えてしまいます。またある人たちには「理想主義」という覆いが掛かっています。それは「宗教の霊」の一つの現われであり、啓示を受けるのを阻む最大のもので、人間の理想や人間の期待、願望によって覆いがかかるのです。主は私たちが門から至聖所に向かって進んでいく過程を通して、多くの覆いが明らかに示され取り除かれて行くようにしてくださいました。

律法主義を喩えるならば、 花婿に打ち叩かれるのを恐れる花嫁がしみもしわもないように自分を懸命に磨くようなものです。それは恐れを動機としています。しかし私たちのあるべき姿は、花婿を情熱的に心から愛するゆえに完全になりたいと願う花嫁です。主への愛故に自分を聖くするのです。ですから、私たちは「神を愛し、人を愛する」ことにおいてますます成長し、それを土台として築き上げられねばなりません。それ以外の土台はすべて歪んだもの、邪道に私たちを陥れます。
クリスチャンは最終的には実際に愛し合うようになるのです。教会の現状を見ると信じられないかもしれませんが、ヨハネ17章にあるイエスの祈りは必ずきかれることを信じますか?イエスは私たちが一つとなるように祈られました。それはただ教義的に一致するというのではなく、イエスが御父と持っておられた一致と同じ一致を私たちが持つように祈られたのです。イエスのこの祈りの成就に参加すること以上にすばらしい目標が私たちにあるでしょうか?

祈り:どうか主を仰ぎ見、主の栄光を見ることができますように。主が私たちのヴィジョンとなりますように。あなたの身丈にまで成長し、あなたが私たちを通して御業をされますように。真の聖さがどれほど麗しいものかという啓示をお与えください。あなたは私たちがそのように聖い者となる目的をもって私たちを造られました。どうかそのヴィジョンを私たちに与え、そのヴィジョンを自分のものとすることができますように。人を裁いたり批判的に見ることなく、人から「あのような人になりたい」と言われるように歩めますように。神を愛し人を愛することを人々に伝染していく者となりますように。イエスの御名においてお願いいたします。アーメン」(終り)

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12 03月
解放と福音   ケン・フィッシュ(Kingdom Fire Ministries)    2018年3月13日

解放と福音

ケン・フィッシュ(Kingdom Fire Ministries)  

以下は去る3月8日モーニングスター・ミニストリーにて行われた「預言的な見方 Prophetic Perspectives」という学びのプログラムのビデオから要約したメッセージです。
現代の教会では悪霊の追い出しということが、あまり行われていません。問題のある人をどこかに幽閉しておくというようなことも以前はありました。悪霊からの解放にオープンな教会であっても、実際にどうように対処すれはよいのかが分からないことが多いのです。追い出しに際しては、劇的な場面もあります。私は別に劇的なことを求めたことはありませんが、実際悪霊はいろいろな現れ方をし、憑かれた人はそれによって大声を出したり、あばれたりしますから、それを避けて上品に追い出しをすることはできない場合が多いのです。 私がこのようなミニストリーを始めたのは、新約聖書の中には癒しと共に多くの悪霊からの解放が書かれているのを発見したからです。私は2色のハイライターを用意して、すべての癒しと悪霊からの解放を色分けしました。それによってある箇所では両方が同時に起こっていることが分かりました。確かに悪霊の追い出しは特に新約聖書に多くありますが、旧約の中にもあります。従って旧約の時代には起こらなかったというのは間違った理解です。 この色分けの作業をした後、私は神に祈り始めました。「どうして現在の教会の中に癒し、解放があまり見られないのでしょうか?」 私はペンテコステ系の教会に通っていて、そこでは確かに聖霊の賜物の教義は教えていましたが、実際に劇的な癒しや解放は見たことがありませんでした。私にはそれが奇妙なことに思えました。 私は数ヶ月の間そのことを祈りました。するとある時、教会のある婦人が袋にはいった沢山のカセットテープを私に差し出し「ご興味があるかもしれないと思って持ってきました。」と言いました。それはジョン・ウインバー師のテープでしたが、それによって私は彼のミニストリーを知ることできたのです。その後私は11年ほど彼と一緒に働く機会が与えられ、自分でもそのようなミニストリーが出来るようになりました。ジョンから「悪霊追い出しのミニストリーをすると言うと、あまり教会から招かれませんよ。」と言われていたので、そのように宣伝したことはないのですが、いつの間にか多くの教会から解放のミニストリー をする要請を受けるようになり、何千という人のために解放の祈りをし、また教えをするようになりました。神はそのミニストリーに油を注いでくださり、今まで30年以上も続いています。
解放のミニストリーに対する私の考え方
悪霊は人々の中にいるべきではありません。クリスチャンの中にも、またノンクリスチャンの中にもいるべきではありません。ですからうむを云わせずに追い出さねばなりません。悪霊は反抗的であり、居座り、人々の生活に問題を起こします。しかし、イエスが来られたとき「天(神)の御国は近づいた。」と言われました。これが主の福音「よい知らせ」であることは皆さんよく知っておられますが、実は「福音・ゴスペル」という言葉はローマの軍隊用語であったのです。当時「福音の進軍」と云えば、新しい皇帝が反抗的な地域を服従させるために軍事行動をとることを意味しました。マルコ1:15でイエスは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。この言葉は当時の人には「わたしは王である。わたしは今からわたしの統治に服従しないものに対して戦いを挑み征服する。」と理解されたのです。従ってイエスが御国の福音のメッセージを伝えることは、悪霊の追い出しや心身の癒しが始まることを宣言されたことであったのです。それはとりも直さず神のサタンに対する「戦線布告」に他なりません。サタンは人間を堕落させるのに成功しましたが、今神が反撃を始められたーこれは戦いを意味しています。 人々は「イエスは柔和で優しい方、戦いなど好まれない」というように思い勝ちです。勿論私たちは人々に対しては優しく接しますが、悪霊に対してイエスは容赦せず「ここから出て行け!」と命令されました。悪霊どもは「まだ時ではありません!」と言って金切り声を上げました。それは彼らには「福音」の意味や神の権威がわかったからです。解放のミニストリーをしたいと思う人は、そのような戦闘的な激しさを持つことが必要です。そこにいるべきではないもの(悪霊)に対して退去するように命じ、妥協の余地は全くありません。神が指揮者であり、私たちは働き手です。私たちは御国を持ち運び、それに反抗する者をすべて立ち退かさねばならないのです。
悪霊からの解放と癒しとの関係
この二つは繋がっていますが、同じものではありません。悪霊はそれ自身が意志を持っていて人の中に入り、取り憑いた人の身体をつかって自分の願望を満たそうとします。癒しは身体やこころの病んだところを正常にもどすことです。 マタイ17:18に「そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。」とあるように、まず悪霊から解放しないと癒しが起こらないこともあります。
一つの興味ある例をお話しします。 オーストラリアで3年ほど前に経験したことです。私は福音派的な教会でメッセージをしたのですが、集会が終りかけたとき、牧師が一人の女性を連れてきて、「どうか祈ってください。精神病を患っています。」と言いました。彼女は3回にわたって入院していたのですが、一回は10年も入っていたそうで、もう25年もショック療法を含めて様々な治療を受けて来たということでした。
私はイエスに「一体彼女に何が起こっているのでしょうか?」と訊ねました。すると主は「母親の中絶について彼女に訊きなさい。」と言われたので「それは変な質問です。そんなことを訊くことは失礼だと思います。」と私は主に答えました。しかし主は「わたしは『母親の中絶のことを訊きなさい』と言ったではありませんか。」と繰り返されました。「主よ、それは全くこの場所にはふさわしい質問ではありません。できません。」と私は答えました。三度目に主は強い口調で「母親の中絶のことを訊きなさい!」と命じられました。私はとうとう「主よ、分かりました。」と言って、女性に「すみません。こんなことを本当は訊きたくないのですが、でも訊かねばならないような気がするのです。もしかしてあなたのお母さんは中絶をしたことがありますか?」と言いました。 彼女は非常に怯えて驚いたように「どうして知っているのですか?!それは極秘のはずです。知っているのは母親と中絶された姉と、私と私の娘の4人だけです。そしてみんな頭がおかしいのです!」と言いました。 私は聖霊の力により「ああ、分かりました。それが理由ですね。中絶されたお姉さんの血が地の中から叫んでいるのに、皆さんはそれを覆い隠そうとしていたのです。」と言って、彼女の額の真ん中に指を2本当て「イエスの御名によってあなたと家族が殺人の罪を隠していたことを赦します。」と宣言しました。
すると彼女は激しく震え床にうずくまり、口から泡を吹き始めました。悪霊が彼女の口を通して金切り声を上げ始め、それは90秒も続いたのです。その声は上のほうに上っていき途絶えました。その女性は床に倒れていましたが、15分ほどすると立ち上がり、「いなくなったわ。私の頭にずっといたものがいなくなった!いなくなった!」と叫びました。 彼女は3人の精神科医にかかっていたのですが、3日後には3人共がもう治療の必要はないと判断しました。彼女の場合は悪霊からの解放が、そのまま癒しとなりました。このように劇的な解放を私は数えきれないくらい経験してきました。
最後に、解放と癒しのミニストリーをしたいと願う人にまず知っていただきたいことは、パウロが1コリント12章でいう九つの聖霊の(預言的)賜物がすべて必要であることです。私の場合は30年の経験からこのミニストリーのためのモデル的な手引書を作りました。それに沿ってミニストリーを行えば80%のケースで成功することができますが、しかし後の20%は、どうしてもその都度主に直接預言的啓示をいただく必要があります。従ってこのミニストリーには聖霊とパートナーとなって進めることが絶対に不可欠であることを強調します。
次に重要なことはどんな場合でも「イエスは必ず勝利する」という確信を持つことです。どのように大きく邪悪な霊であったとしても、イエスの御名に勝てるものはありません。それをあなたがしっかりと信じることなしに悪霊と対決するならば、悪霊はそれを見破り、そこにつけこんできます。そのような確信と権威を持つためには学びと訓練が必要です。解放のミニストリーにより、今まで希望がなかった人々に希望を与え、癒しを与えることができるのです。終末の教会の最も重要な役割は、私たち教会が悪魔と悪霊に打ち勝つことです。このミニストリーが回復されていくことを私は心から願っています。(終り)

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05 03月
私が見た終わりの日のヴィジョン ポール・キース・デイビス(2018年2月24日)

私が見た終わりの日のヴィジョン

ポール・キース・デイビス(2018年2月24日)

2008年7月31日に私がカナダのアルバータにあるレッド・ディアでカンファレンスの講師として滞在していた時、主は非常に意味のある啓示的な経験を与えてくださいました。それは私が夜の集会の準備のために長時間を過ごした後のことで、午後3時ごろでした。
その時用意していたメッセージは、私が数ヶ月にわたって熱心に調べていた箇所からで、マタイ24:37−39にある主の警告に関するものでした。

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべて物をさらってしまうまで、彼らはわからないのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」
午後3時ごろ、主がはっきりと私に語られました。「ノアの日に関して極力理解を深めることがあなたに与えられた任務です。ノアの日を滅ぼしてしまったものを、あなたの世代は征服しそれに打ち勝たねばなりません。」
この時の主の言葉によって、それ以来私は、創世記6章を完全に理解し、これからの時代との関係を知るために情熱を燃やし続けて来ました。
私はレッド・ディアのホテルの部屋のソファに座り、創世記6章が今の時代に何を語ってるいるのかと思いをめぐらしていたのですが、その時突然、啓示的霊的経験をしたのです。
私は一瞬にして霊でフットボール競技場で行われている大伝道集会の中に立っていたのです。競技場に置かれた説教壇から語られるメッセージに人々が熱心に耳を傾けて釘付けになっていることに、私はまず気づきました。次にこれが誰の声かわかりました。それは偉大なビリー・グラハム師が、イエス・キリストの十字架の御業を彼独特の素晴らしい言葉で語っている声でした。
人々の服装が1960年代のもののようだとわかりました。グラハム師が4つの法則を用いて油注がれたメッセージを語り、静まりかえった会場に、彼の声だけが響いていました。すると「いさおなき我を Just As I Am」が歌われ、何百人もの人々が彼の招きに応答して、静かに秩序正しく前に出て行来ました。
その時、幻の中の”声”が、「これから来るものはこのようなものではない!」と言いました。その言葉によって、これから来るリバイバルは、グラハム師が語ったように確固たる福音的油注ぎを持つことは変わらないけれど、それに加えて敬虔なる驚異や罪の自覚を促す聖霊の大きな力を現す違う集会になることを私は知りました。それは第一テサロニケ1:5にあるとおりです。
「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」
その声を聞いた時、私は次に自分が大きな会場の広い祭壇の前に立っているのに気がつきました。そこは簡易ベッドや担架や車椅子に乗った病人で溢れていました。昔のリバイバルの写真でしか見たことがないような重度の病人ばかりなので、私は驚きました。
私の右にいる簡易ベッドに寝た男性の身体はプリッツェル(お菓子)のように曲がりねじれていました。その先にはもう一人の男性が車椅子に座っていましたが、彼の両足は骨の病気でひどく曲がっていました。
彼の横には、男性が担架に横たわっていて、その腹部からは大きな腫瘍が露出していました。私はこの光景を見て、実際のところ、勇気づけられました。それはそこにある空気が信仰の霊で満ちていたからです。これらの人々は神の臨在の中で自分が癒され救われると期待し信じるゆえに集まって来ていたからです。
そのことを私が悟ったその時、後の両開きのドアが突然大きく開き、10人くらいの家族が入って来ました。彼らは悪霊に憑かれていることが誰にでもわかるような10代の少女を一緒に連れて来ました。少女は叫び、罵り、大の男たちをまるで布製の人形のように投げ飛ばしていました。
家族の中の男性が、「この状態をどうにかできる人間が、ここには一人くらいいるだろうね!」と要求するように高飛車に言いました。その言葉で、この家族が神の助けを絶望的に求めていることを私は感じ取りました。彼らはすべて出来る事は試してみたのです。この家族を助けることができるのは、キリストの権威と力だけでした。
家族が通路を歩いて来た時、私は彼らに近づきましたが、大勢のとりなし手を集めたり、祈りと断食をする暇はないことがはっきりわかりました。それはカルメル山で光と闇が戦ったときのようであり、神の恵みと明らかな神の臨在が私たちのうちになければ、この壮烈な事態に対処することはできなかったのです。私はすぐに主がガダラの地で悪霊と対決したときのことを思い出しました。

また私は、単なる霊的賜物(それは素晴らしいものであるにしても)では、このようなレベルの闇に打ち勝つには十分ではないことを直観的にはっきり悟りました。それには「私の中におられるキリスト、栄光の望み Christ in me, the hope of glory」が不可欠です。
家族に近づいて行った時、私の霊の目が開かれ、この少女に取り憑いている悪霊が見えました。それは3メートル半ほどの高さがありました。
私は創世記6章から学んだことや、主が来られるのは丁度ノアの日のようであると主が警告されたことを思い出しました。自分が今創世記6章に書かれている霊的領域の生き物を相手にしていることがわかりました。肉においてノアの日を滅ぼしたものに対し、私たちは霊において打ち勝たねばならないのです!
突然、霊的権威に対する今ある理解を超えた権威の領域が私のうちに沸き起こりました。そして私の口から「出て行け!」という言葉が大いなる力と権威を持って発せられました。
その言葉が発せられるやいなや、悪霊は少女を離れ去りました。勿論これは、主の再臨の前、終わりに日に現れる大いなる闇に備えて、私たちがそれに打ち勝つために必要な力を求め現して行く必要を教えるためのデモンストレーションでした。大いなる刈り入れをするために、キリストの花嫁はこのような領域のキリストの権威を知るようにならねばならないのです。
悪霊が少女から去ったとき、すぐに家族全員が聖霊に罪を示され自分たちの人生を主に捧げました。そのとき私はまた声を聞きました。「今までアフリカやインドに追いやられていたものがアメリカにもやって来ます。誰かが早急にわたしと一つとなり権威を持たねばなりません。」
その時私が霊で体験したことは、アフリカやインドでは当たり前に起こる霊的戦いであることを私は知っていました。しかしこれまで霊的暗黒の領域、次元からアメリカを守っていたある制御の力が今や大幅に取り去られたのです。
今までもアメリカの特別な地域や状況のなかでは起こっていましたが、これからはそれがもっと全般的に広がって行くのを私たちは目撃することになるのです。私たちは熾烈なこのチャレンジに立ち向かうための備えを今せねばなりません。このようなレベルの敵の攻撃に対してキリストの花嫁は「キリストの満ち満ちている身たけ」というレベルの成熟度に達し、死と地獄、墓に勝利した主を完全に表現するものとならねばなりません。

使徒パウロはエペソ4:11−13で次のように勧告しています。
「こうして、キリスト御自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちが皆、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

この勧告によって私たちは過去の御霊の傾注とは違うリバイバルの霊のさらなる顕れを見るようになるでしょう。今まで私たちは、過去に顕された啓示と力のマントが、フレッシュで新しいものと一つになることを熱心に追い求めて来ました。
主はヨシュアに、「わたしは、モーセと共にいたようにあなたと共にいよう」と約束されましたが、ヨシュアの働きはモーセのものとは全く異なっていました。それと同じように、私たちは先の霊的チャンピオン達に注がれていたのと同じ啓示と力の霊を受けるかもしれませんが、働きのタイプは大いに異なるものとなるでしょう。
おもしろいことに、この霊的経験をして間も無く、私はあるカンファレンスでハイディ・ベイカー師と共にミニストリーをすることになりました。私はこの機会に私が受けた啓示を彼女に伝え、彼女がアフリカのモザンビークでミッショナリーとして経験して来た深い闇の世界との対決のいくつかを話して欲しいと頼みました。
彼女は躊躇することなく、悪霊に取り憑かれた人のことや悪霊との戦いのことをいくつか話してくれました。それは西洋のクリスチャンには想像もつかず、またそのような悪霊と対戦する備えもできていなような話でした。
しかし私たちがそのような状態であっても、主は私たちのために扉を開いて、このようなレベルの霊的権威と支配力を持つために初代の使徒たちが支払ったと同じ代価を私たちも支払う機会を与えてくださっているのです。
聖書はこれが終わりの日に起こるミニストリーの一部であることを明らかに預言しています。黙示録は、敵が大いなる怒りを持って地に投げ下ろされる時代のことを示しています。また、天で大きな声がして主の民に次の約束が与えられることも書かれています。

黙示録12:10−11
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟の告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に到るまでもいのちを惜しまなかった。」
対決の時が迫っています。私がこのメッセージを語り始めてから、すでに数えきれないほど想像を絶する暗黒と霊的横暴さがニュースで報じられています。一人の預言者がはっきり次にように私たちに訓戒を与えています。

イザヤ60:1−3
「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(終り)

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29 01月
  リック・ジョイナー師のフェイス・ブックから    リック・ジョイナー   2018年1月29日

2018年1月26日の
    リック・ジョイナー師のフェイス・ブックから

                    リック・ジョイナー

リバイバルがやって来る

 もうお聞きになったかもしれませんが、今世界中にリバイバルが起きようとしています。アメリカでもその気配を強く感じています。今年2018年は世界中で大きなリバイバルが、また2019年には更に大きなリバイバルが、そして2020年には地域を一掃するような広大かつ圧倒的なリバイバルが起こるでしょう。
 私はこのところそれを声を大にして云っていますが、間もなくリバイバルと同時に、大きな「霊的覚醒」が起こります。それは歴史始って以来三度目の過去最大のアウェイクニングとなるでしょう。リバイバルは通常平均して2−3ヶ月、長くて英国ウエールズ地方とかアズサ・ストリートで起こったもので1−2年しか続きませんが、霊的覚醒は30−50年という長期に渡るものです。
 今年は皆さん、ぜひ期待し見張っていて下さい。アメリカ、特に私たちのサウス・カロライナ州地域でも、早ければ今年、多分来年には必ずリバイバル起こると予期しています。

 この数週間私は地が揺れる振動を感じて来ました。それが最近のアラスカ地震で現実となりましたが、私は今、西部沿岸、特にロスアンジェルスと、シアトルにshaking(地が震われると同時に霊的な震いも起こる)ことを祈っているところです。ロスに起これば、前回のアズサよりもっと大きな(過去に起こったジーザス・ピープル・ムーブメントのようなものも含む)ものに発展し、それがヨーロッパから世界に向かって大きく波及することが十分考えられます。
 つまり世界中でこのリバイバルの波と大アウェイクニングが起こるのです。皆さん、CATCH THE WAVE ぜひその波を見逃さず、キャッチし乗って下さい。

獅子の口を閉ざさせたトランプ大統領

 先週は、ダボスで恒例の年一回開催される世界経済会議が開かれました。これには世界のエリート経済人と共に、今迄世界を支配しようとして来たグローバリストを含む各国首脳政治・経済人の蒼々たるメンバーが集まっておりました。
 これにトランプ大統領が出席し、公式の場でのスピーチは僅か15分余でしたが、それが世界から集まった著名人の頬を平手打ちする程に圧倒したのでした。これを例えるなら、世界を制しようとする世界の獅子たち(特にグローバリスト)の口を完全に封じ込んだといえるのです。
 というのは、世界各国、特にヨーロッパの多くの国は今大変な危機の中にあります。彼らの問題は、深刻な経済の行き詰まりとか伸び悩みだけでなく、この数年間取って来た全く無責任な放任主義の「移民政策」のツケが廻って来て、今やテロを含む移民犯罪者を取り締まることができない程の深刻な問題になっています。例えばドイツでは警官を襲う暴徒の犯罪だけで一年に3万5千件に達するという、考えられないような(無政府状態的)危機に陥っています。

 一方そんな中で、アメリカはどうかといえば、過去最高の経済ブームに入っています。例えば、株式証券取引面だけ見ても、最近の株価値上がりによる価値上昇額は総計で8兆億ドルに達するといわれます。一方失業率を見れば過去最低という数字を示し、しかもそれは移民して来た少数人種の人たちの失業率でもそうです。加えてアメリカ企業への巨額の投資ブームが起こり、それに最近国会を通過したタックス・カット(減税案)の影響により、何と250万にのぼる民間企業会社が既に減税を見込んだボーナスの支払いを発表し、賃金値上げが続々提示されているというのですから、今アメリカは歴史始って以来、空前の経済ブームに湧いているといって過言ではありません。

 ところが一方で「フェイク・ニュース問題」も世界に広がりつつある深刻な状態にあり、むしろヨーロッパの方がアメリカ国内を超える程フェイクニュースが氾濫しています。従って多くのヨーロッパの国々の要人たちはアメリカの真の状態を知らされていませんでした。それについて私は25年前に警告(預言)しましたが、アメリカの報道会社CNN EUROPPA の画策がヨーロッパでのフェイクニュースの氾濫に大きく貢献して来ました。
 しかしそのフェイクニュースが嘘であることが最近人々に知れ渡って来た結果、今回のトランプ大統領のダボス参加に多くの人たちが関心を持ち集まって来ました。しかもこの大会でトランプ大統領が演説する時には多くの反トランプの人たちが退場するだろうといわれたのですが、実際には誰も退場しませんでした。今となっては多くの人が真実を知って、ヨーロッパを去る人さえ出始めていると云われます。
 確かにトランプ大統領は今回、グローバリストという獅子が群れる檻の真ん中に放り込まれたかに見えましたが、逆に彼こそ真の愛国者のチャンピオンだと称えられたのです。

 それでは最後に改めて申し上げます。いよいよリバイバルの時が来るのです。それぞれの国、それぞれの場所でリバイバルへの用意をして下さい。そしてリバイバルが起こったら、すかさずその場所を訪ね、その波に乗り、その燃える火を持ち帰って下さい。リバイバルは燃え広がる炎です。(終り)

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22 01月
預言の召し       ビル・ジョンソン                2018年1月22日

預言の召し

ビル・ジョンソン

 訳者注:最初にお断りしておきますが、今回のジョンソン師のお話は(師の礼拝時のメッセージです。)今の時代のクリスチャンに最も必要なものであると判断し、特に重要な部分を下線を付けさせていただきましたことをご了承ください。

すべてのクリスチャンは、 預言をし、その機能の中で生きるようにと召されています。勿論、預言者の働きに召されていることと、預言的に生活するのとは違いがあります。しかし、もしあなたが神から預言者の働きに召されていても、名刺は作らないでくださいね。バプテスマのヨハネのことをイエスは一番偉大な預言者と言いました。しかしヨハネが「あなたは預言者か」と訊かれたとき、彼は「違います。」と答えました。人びとは今度はイエスの所に行き「ヨハネがその預言者か」と訊くと、イエスはそうだと答えられました。これは面白いですね。歴史上最高の預言者が自分の肩書きを知らずに、ただ神から与えられてた任務を果たしていたのです。どのような肩書きで呼ばれるかよりも、あなたがどのように働くのか、どのように機能するのかの方がより重要です。ヨハネは「私は荒野で呼ばわる声だ」と言いました。肩書きが悪いわけではありませんが、あまり重要なことではありませんね。

民数記11:24「ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。一人の名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊が留まった。—彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。—彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。」

私はこの箇所がとても好きです。私たちが契約によって他の人びとと繋がっているとき、彼らが受け取るものを私たちも受けることが分かるからです。ある種の相続は個人にではなく家族に与えられるのです。70人の長老は幕屋の回りにいましたが、2人の長老はなんらかの理由で、宿営に留まっていました。神の霊が70人の上に下り、彼らは預言し始めましたが、それと同時に宿営の2人も同じ霊の油注ぎを受けて預言したのです。

どのようにそれが起こるのかを私は知りませんが、すばらしいことだと思います。あなたがある人と関係を結んでいるならば、その人に打ち破りが起こると、それはあなたのものでもあるのです。
トム・ジョーンズ師は、数年前にブラジルで主とものすごい出会いをしました。それは何時間にも及ぶもので、聖書に書かれている出来事のようなレベルのものでした。彼の人生はその出会いによって全く変えられました。そして彼は全く知らなかったのですが、丁度同じ時に彼の奥さんはフロリダの高速道路を運転していて、その時主とのものすごい出会いが起り、運転を続けることができず、車を道の横に止めねばならないくらいでした。何が起こったのでしょうか。これは人との繋がっている恩恵であり目的です。私たちは人との繋がりから退いて人間関係を結ばないという自由は与えられていないのです。ベテルの学校の学生たちの夫や妻は、毎日学生がクラスルームで受けとる分与を同じように受けるのです。

28節「若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。『わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。』しかしモーセは彼に言った。『あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればいいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。』」

旧約聖書では、ほとんどの場合、聖霊が下った者は誰でも主のことば、預言を語りました。即ち、聖霊に満たされたというしるしは、預言を語ることだったのです。パウロが聖霊の賜物について語ったとき「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」と言ったのは、これが理由だと思います。皆さんは「預言」と聞くと、集会中に行われるものだと考えると思いますが、それは預言の働きの5%くらいです。預言とは私たちの生き方、機能の仕方、考え方、見方、コミュニケーションだと思います。それは「主が言われます」という言葉で始まったり終ったりする必要は全くないのです。それはある状況の中で、時に適った言葉を語ることであり、それが主からのものであるならば、人びとの人生に実を結び、彼らは主に栄光を帰すことでしょう。言葉は「宗教的」に発せられる必要はないのです。主の言葉が発せられたとき、それは霊的空気を変えます。世界はそのような人たちを必死に求めています。

今、世界では宗教の霊(religious spirit)と政治の霊(political spirit)がはびこっていて、それによって神のことばは薄められ、歪められています。ですから正確ではっきりした言葉、力ある言葉が世界の国々、町まちに届けられることを主は願っておられるのです。

私たちは毎日、うそ偽りを語られています。もし何かしらのメディアを聞くならば、そこに含まれる偽りを聞くことになります。(フェイク・ニュース)それは意図的な嘘というよりは、「自分の信じるところを是非伝えたい」という気持からのことが多いかもしれません。しかし、その人の視点が間違っていると、すべてをそのレンズを通して見てしまい、結果としては真実な報道は出来ないのです。
何年も前のことですが、あるサタン崇拝者が救われ、牧師が彼を経済的にサポートしました。メディアはそれを聞きつけて、牧師がこの男を用い、「サタン崇拝者を救った牧師」としての名声を保持しようとしているのだと報道したのです。
そして「この元サタン崇拝者は、牧師からの金でゴルフコースが見えるマンションに住み、ゴージャスな車を運転している」と報道しました。これは本当のようですが、全く本当ではありませんでした。牧師が彼にお金を与えたのは、彼が必要としていたカウンセリングのためでした。彼は虐待を受けて育ったので、傷が深かったからです。ゴルフコースを見下ろすマンションというのは、ただのアパートで、ゴルフコースというのは、ミニチュアゴルフでした。車もすごく古いものでした。ですからすべて「本当」でしたが、まったく真実ではなかったのです。

「宗教の霊」と「政治の霊」は、共に「疑いの霊」を分与します。疑いの霊は、ある状況を曲げて解釈し、人びとの心に不快感、腹立ちの霊を起こさせます。それは一見預言の霊のように見えますが、じつは偽物です。その霊を受けると、あなたは「このままには放っとけない!どうにかしなくてはならない!何か言わなければならない!」という強い気持を抱きます。しかしその情報のもとが実際は偽りの霊であることが分からないのです。「疑いの霊」は人から人へ分与されて行きます。あなたは間違った情報を聞いて、当然ながら心を揺さぶられます。それが間違った情報だと分からず、その結果、あなたは間違った反応をし、間違った行動をしてしまうのです。(訳者注:今のアメリカはまさにそうです。)

レディングの空港に戻ってくると、時々私をののしるクリスチャンに出会います。多分それは、彼らが私に関するインターネットを見たか、人から何かを聞いたからだと思います。彼らの私に関する「確信」は正しいかもしれません。ただ彼らが信じた「情報」が間違っていたのです。彼らの態度から、「私は主のためにこれをしているのだ!」という強い確信があることが分かります。正しい行動だと信じているのです。しかし誰かが偽りを彼らに信じ込ませたのです。

預言的で霊的見分けが出来る人たちは「真の預言の油注ぎ」と「疑いをもたらし、自分の意見を通す怒りの霊」とをはっきりと見分けねばなりません。人生の最大のチャレンジの一つは、あなたが愛し仕えている人が持つ怒りと同じ怒りを自分も持ってしまわないようにすることです。それはとても難しいことです。例えば、あなたが貧しい人を一生懸命助けているならば、金持ちに対して腹を立てないでいるのは困難です。もし裕福な人たちへのミニストリーに召されているならば、きちんと働かない人たちに腹を立てないでいるのは困難です。大学生へのミニストリーをしているならば、保守的政治グループに腹を立てないのは困難です。老人にミニストリーをしているならば、若者に腹を立てないのは困難です。インディアンにミニストリーをしているならば、彼らに不正を行ったものたちに腹を立てないでいるのは困難です。

私たちの働きの実は、私たちがどれだけ人びとを愛し、折りに適った神のことばを与えることができるかによって決まります。
自分の考えを押しつけたり、自分の益になるからではなく、彼らの益のために100%神から受けたことばを語るのです。そして彼らが持つ怒りを自分は持たないことです。歴史上、私達がどれほどこの国のカルチャーに良い影響を及ぼすことができるかは、私たちが「怒り、立腹」という感情をどれほどコントロールできるかにかかっています。これが真理です。(注:自分に死ぬ必要がある)

イザヤ60章は私の人生を変えた大好きな箇所であり、現在の教会のための預言だと思いますが、その一つ前の59章21節は、60章に書かれていることが起こるための舞台を作っています。

「『これは、彼らと結ぶわたしの契約である。』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしにことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。』と主は仰せられる。」

「神の御霊が人びとにくだること」と「神のことばが彼らの口にあること」の密接な関係がここでも言われていることに留意してください。神の御霊が私たちに留まっている証拠は、私たちの口から神のことばが発せられることなのです。イエスは「わたしは父の言われることだけを言う。」と言われ、私たちが話すべきことの基準を示されました。地上を歩かれ人の中で、一番すばらしい独自の考えを持っていた人は、多分イエスだったことでしょう。けれども主は自分自身のことばは何も語られなかったのです。

ヨハネの福音書7:18には「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。」とあります。自分から語るとは、御父が語られていることに耳を傾けようとせず、自らのことばを語り、それによって密やかに名を上げようとする行為です。

使徒行伝3を見てみましょう。2章の聖霊の大いなる注ぎの後のことです。24、25節に「また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。あなたがたは預言者たちの子孫です。また神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。」とあります。イザヤ59章はイスラエルに与えられた言葉でしたが、預言的には「贖われた者たち、即ち教会」に対して言われたことばです。そして使徒3:25は明らかに教会へのことばであり「あなたがたは預言者たちの息子、娘です」と明言しているのです。

これは「あなたや、あなたの子孫、あなたのすえのすえの口にわたしのことばを置く」という契約の成就です。神が私たちに御霊をくださり、いずれの世代においても地上に神のことばを宣言し解き放つことが出来るようにされたのです。私たちが受け継いでいる相続財産が何なのかを知ることは重要です。まず神が「私たちがどのような身分の者であるか」と言っておられるかを知らねばなりません。自分の「神にあるアイデンティティー」を知るときに、自分の受けている相続財産を用いることができるのです。それは傲慢でもなく、自己中心でもなく、自分に自信があるということでさえありません。神があなたを「預言者の息子、娘である」と言っておられるのです。それによってあなたは「神の御霊を受け」「神のことばを語る」正当な権利があります。この二つは同じことなのです。

イエスは肉となったことばであり、神の臨在は神のことばと同じです。神の臨在をあなたが感じる時はいつでもそこに神の声があるのです。そして神の声があるときはそこに臨在があるのです。

イザヤ51:12、13「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りをおそれている。」

神は私たちが恐れるとき、やさしく慰めてくださる方ですが、この箇所では「わたしが慰めると言っているのだから、あなたには恐れる権利はない!」と厳しく言われています。あまり聞きたくないことばかもしれませんが、時として神はこう言われるのです。

もし私が内向的になり「どうしよう、こんなことになって私の人生はどうなるのだろう。」とつぶやき始めるならば、私は恐れで一杯になってしまいます。恐れは時として自己中心の表れです。それは天を引き延ばされた方を見失っていることだからです。その方が「わたしが慰める」と言っておられるのです。私たちが恐れるのは神を見失った証拠です。この箇所で神は私たちの「人に対する恐れ」を取り扱っておられます。「人に対する恐れがなくなるように祈ってください」と頼まれるとき、私はもちろん祈りますが、人への恐れに対処するためには「神を恐れること」を知ることが必要です。両方を一度に恐れることはできません。

人を恐れるとき、あなたは「神への恐れ」を「人への恐れ」と取り替えてしまっています。人への恐れを持ってしまったとき、私たちはその罪を告白し、悔い改めねばなりません。それによって人への恐れから解放され自由になるのです。人を恐れることから神を恐れることへの転換は、直ぐにできることです。

15節「わたしは、あなたの神、主であって。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。わたしは、わたしのことばをあなたのくちに置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ。』とシオンに言う。」

神はご自分が祝福した者たちを守る方です。祝福した者が敵に食い尽くされるのを見放す方ではありません。祝福し、守ってくださる方です。主は「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた、わたしの手の陰であなたをかばう」と言われます。そしてそれを通して「天を引き延べ、地の基を定める」と言われます。これは「天にあるごとく地にもなさせたまえ」という祈りの旧約聖書版です。神は「天を地にもたらすプロセス」とそのための手段を語っておられるのです。一つの世界(天)にある現実をもう一つの世界(地)にもたらす方法であり道具です。それは即ち「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた」とあるように私たちが神のことばを宣言することに他なりません。

モーセは「すべての民が預言者ならよいのに」と祈りました。イエスは、預言者や霊の父祖たちは私たちが見ているものを見たいと切に望んだと言われました。モーセはあなたや私が生きている今という時代、神のすべての民が預言的な油を持つ時代を夢見ていたのです。私たちの預言は第一に自己中心であってはならず、次に人を暴いたり痛めたりするものであってはなりません。それは人のデスティニーを呼び出すためのものです。主を知らない人であっても、私たちの口を通して神がその人の中にある尊い金塊を呼び起こし、その人の人生が変えられてきたことを、私たちはこの数年間に幾度となく見てきました。彼らはそれまで聞かされていた偽りではなく、神の真実のことばを受け取って、方向転換ができたのです。今ここにいる皆さんすべてに対して、神は力強い、ポジティブな正しいことを宣言されています。私たちがそれを聞き、しっかり受け止めたとき、私たちは変ることができるのです。主は私たちが主の御声を聞くようにと召してくださっています。今は「神の声を聞くこと」ほど嘲られていることはありません。しかし私たちは神の御声を聞きながら、それに従って生活するという預言的な生き方ができるのです。それははっきりした大きな御声とか、壁に字があらわれたというものではないかもしれません。しかし、神の臨在、御霊の臨在の中で生きるライフスタイルを始めるとき、あなたは主の思いを思い、主のことばを語り始めるのです。それは頑張って一生懸命に神の御声を聞くというのではありません。実際、私は頑張ると何も聞くことができません。神を聞くことは努力からではなく、降伏することからくるのです。あなたが自分の決意と努力で(即ち肉で)求めるのに疲れたときに、神は語ってくださいます。

エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」
ここにある「恵み grace」とは神の特別の厚意です。あなたが誰かを励まそうとして口から出したことばを神が承認されるとき、神はその人に恵み、特別の厚意をそそそがれるというのです。
仕事関係の人、或いは近所の人に、何か励ましのことばを語ったり、神がその人の人生にしておられることを告げたり、その人のすぐれた才能を認めたりするとします。そのようにあなたが人の徳を養うことばを口からを出すならば、神はそこに恵みを置き、厚意を置いてくださるのです。
神は「わたしの息子、娘が、わたしからの励ましをこの人に伝えたのだから、わたしは勿論それをバックアップせねばなりません。」といわれるのです。

預言的ライフスタイルとは、常に神の臨在と共に歩み、神の思いを自分の思いにしていくことです。そして人びとの徳を高めることばを口から出す時、神がそのことばのバックアップをしてくださるのです。(終り)

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