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【召しの学び】真の召しに就くまで

【召しの学び】真の召しに就くまで

『教会・牧師・預言者』(原題:HE GAVE GIFTS UNTO MEN)ケネス・E・へーゲン著、エターナル・ライフ・ミニストリーズ発行、1998年発行、定価(本体 ¥2390円+税)P. 5, 63-82, 204-207

P. 5

教会(キリスト教界)のかしらであられるイエス・キリストは、まもなくなされるご自身の再来のために、ご自身のからだである教会に備えをさせておられます。ですから、奉仕に召された者たちにとって、キリスト教界における自分の本来の立場で働きをすることが、きわめて重要なのです。
今日、キリスト教界において、使徒と預言者の役割について、さまざまな論議が生じています。
「これらの職務は今日存在しない」と考えているクリスチャンたちさえいます。「これらの職務の人々には地域教会の牧師や一般の信者たちの上に権威がある」という極端な考えを持っている人々もいます。
本書は、使徒、預言者および牧師の職務を聖書的に考察し、それらは今日もキリストのからだである教会(キリスト教界)において機能すべきものとして見ています。これらの職務がキリスト教界から取り除かれたことなど今まで一度もありません。私は、神はこの分野の教えに対して聖書的バランスをもたらそうと望んでおられる、と信じています。

ケネス・E・へーゲン

P. 63-82

第三章 神は新参者を権威ある立場には置かれない

時々、こういう質問をする人がいます。
「牧師の場合はタイトルで呼ぶのに、他の四つの奉仕の賜物(奉仕者)の場合はそうしないのは、なぜですか?」
1937年に私が初めてペンテコステ派の人々と出入りするようになった時、私たちの地方ではさまざまな奉仕者をタイトルや職務でよく呼んでいました。私たちは、たとえば、『〇〇預言者』という言い方をしていました。
今日、私たちはあまりそういう言い方をしません。そのことは、ある意味で、そういう職務が今はキリスト教界の中で機能していないという印象を与えています。それでも、今日、私たちがさまざまな奉仕のタイトルを使いながら、それに関する聖書的教えをしないと、ある人たちは必ず何らかの溝に落ちて問題に陥ってしまいます。
私は今まで自分が預言者と呼ばれたいと思ったことは一度もありません。なぜなら、私は偽預言者たちと同類にされたくなかったからです。偽預言者とは何ですか?、とある人が私に尋ねました。一つには、偽預言者とは、この職務に召されていないのにこの職務の中で働きをしようとしている人のことです。
たとい本当の預言者であっても、タイトルを使うのがいつでも賢明であるとは限りません。なぜなら、すでに述べたとおり、たいてい人々はそれにとらわれてしまうからです。そのうえ、奉仕は名前やタイトルで成り立っているのではありません。それは聖霊の力と現われによって成り立っているのです。人々が自分を何と呼ぼうが、あるいは呼ぶまいが、重要ではないのです。私たちは神に従うことだけを望むべきです。
本当に重要なのは、自分が召されている奉仕の職務に聖霊の力によって就くことであり、そして自分の奉仕が神のことばの上にしっかりと土台を置いていることです。私たちは、神がキリスト教界の中に置いておられるすべての奉仕を必要としているのです。私たちがそれらの奉仕にどんなレッテルを張ろうとも、私たちにはそれらの奉仕が必要なのです。
今日、『預言者』というタイトルを使っている人々の中に、奉仕を始めたばかりの新参者にすぎない者たちがいます。神はこの預言者の職務に新参者を置かれることはない、ということを人々は理解する必要があります。
神は奉仕者をどんな職務に就かせる時でも、その前に、まずその奉仕者を試されます。そして、自分の真の召しあるいは奉仕の完全な状態に入ることが一度もない人たちが大ぜいいます。なぜなら、彼らは神が自分に行なうように与えておられる小さなことにあまりにも不忠実だからです。
ある時、イエス様が私にそのことについて語られました。そして、それはいつでも私にとって、ますます現実のこととなってきています。
彼は、「霊的成長は自然的成長と似ています」と言われたのです。
たとえば、あなたは十代の時に何らかのことを知っていて、何らかの責任を持っていたはずですが、大人になるとちがってきて、大人としての完全な責任を持つようになったはずです。それと同じことが霊的にも当てはまるのです。
神が奉仕に召しておられる人々は、それらの職務にただちに入るのが常であるとは限りません。信者は、神が最終的に彼らのために用意しておられる奉仕を最初からスタートさせるのではありません。それが正常なことなのです。それにはいくつか例外があるかもしれませんが、通常、それは正常なルールとして真実のことなのです。
パウロの奉仕についてのみことばの中に、このことに言及している箇所が見られます。パウロは、神が彼のために用意しておられた究極的な奉仕、すなわち使徒としての奉仕を初めからスタートさせたのではありませんでした。神がパウロを使徒としての奉仕という、より偉大な働きに聖別するよりも前に、パウロは長年にわたって預言者かつ教師でした(使徒13・1,2)。
もし、あなたが奉仕に召されているなら、自分はそのルールの例外だと思ってはいけません。神はあなたのために用意しておられる職務にあなたを就かせる前に、あなたを試されることでしょう。
たとえば、神があなたはどこかの教会の牧師に召しておられるとすれば、最終的にはあなたは四千人の教会の牧師になるかもしれませんが、そこからスタートすることはできないでしょう。あなたは最初は四人から四十人の会衆からスタートし、四百人にまでしていかなければならないかもしれません。実際、あなたが最初に奉仕をスタートさせる時は、あなたには四千人の教会を牧会する資格が備わっていないことでしょう。
伝道者もそれと同様です。彼は、私がしたように、ほんの二、三人に向かって説教したり、刑務所で説教することからスタートしなければならないかもしれません。
教師は、家庭集会で教えることからスタートしなければならないかもしれません。そして、もしかすると、彼らはその段階以上に進展することが決してないかもしれません。神が彼らを召して行なわせることはそれだけであって、それが神が彼らのために用意しておられる究極の召しであるなら、そうかもしれません。
けれども、重要な点は、五つの奉仕に召された者はだれでも、神がより大きくその人を用いことができるようになる前に、その人が今いる場所で自分が忠実であることを証明しなければならないということです。神が彼にしなさいとすでに語られたことに彼が忠実でないなら、神はその人の上に油注ぎを増し加えることはできません。
神が人々のために究極的に用意しておられる奉仕を初めからスタートさせないのが正常である理由は、神にあって訓練と試しの時があるからです。霊的成長は自然的成長と似ているゆえに、神がだれかを奉仕の職務に置く前に、その人は自然的な面でも霊的な面でも、成長して成熟する必要があるのです。なぜなら、奉仕の職務には大きな責任があるからです。
神は権威ある立場に、新参者、すなわち、霊的ことがらにおいて訓練されてなく未熟である者を就かせることはなさらないのです(第一テモテ3・6)。

奉仕の諸段階

たとえば、私の人生では、神は私をすぐに預言者の職務に移されたわけではありませんでした。事実、私は預言者の職務に就く前に、五十年以上も奉仕に携わっていたのです。
もちろん、みことばを宣べ伝えるという召しは、私の生涯でずっと感じていました。私が病床で新生した後、私は、「主よ、私をここから起き上がらせてください。そうすれば、私は行って宣べ伝えます」と言いました。私は、自分が奉仕に召されていると知っていました。私はその病床から離れた時も私はみことばを宣べ伝えており、長年にわたって、私はみことばを宣べ伝えるための油注ぎを受けていただけでした。1934年から1943年六月までの九年間、私は、みことばを宣べ伝える者以外の何者でもなかったのです。
私が奉仕を始めたばかりの頃、私は教えることが好きではありませんでした。けれども、私は一人の牧師として、大人のための聖書クラスで教えなければなりませんでした。けれども、私は、そのクラスが終わった時ほどうれしかったことはありませんでした。なぜなら、その後は説教ができたからです。私は、「両腕を風車のように振りかざして泡を飛ばす説教をしなければ、自分は油注がれていない」と思っていたのです。
けれども、1943年六月午後三時、主は教える賜物を私の霊の中に落とされました。エペソ4・7はこう言っています。
キリストの賜物の量りにしたがって、私たち一人一人に恵みが与えられました
旧約聖書で神が預言者エリヤに、エリシャに油注いで彼の代わりの預言者としなさいと言われたことを、みなさんは覚えているはずです(第一列王記19・16)。エリヤはエリシャのそばを通り過ぎ、自分のマントをエリシャに投げかけました。
そのマントは、神の油注ぎが人の上に臨んで、その人をある特定の職務に就かせたり、神のための特定の仕事または働きをさせることを象徴する外套でした。
その午後、私が家の中で歩いていると、教えのマントが私の上に落ちて来たのです。ちょうど、だれかが私の上に外套を落としたような感じでした。最初、それは私のからだの上に落ち、それから私の内部に下って私の霊の中に入りました。私は、何が起こったかが正確にわかりました。神は私に教える能力を与えてくださったのです。
私は大声で、「これからは、教えることができる」と言いました。
けれども私は、「私は教えの賜物を受けました、私は教師です」と言って、その経験を人々に言い触らすことはしませんでした。
あなたがまず最初になるようにと神が召しておられる者になってください。そうすれば、人々はあなたの上にある神の油注ぎに気付くことでしょう。あなたの生活の中で働くその霊的備えが、あなたが何に召されているかを示すことになるのです。また、あなたは自分でそれを宣伝する必要もないはずです。あなたが就く職務は、すぐにだれにでも明らかになるはずです。
このように私は、一人の説教者でしたが、その後、みことばの教師ともなり、十二年近く牧会したのです。しかし、それでもまだ私は預言者の職務に就いてはいませんでした。時折、知恵のことばが私を通して現わされていました。私は異言を解き明かしていましたが、預言はしていませんでした。
知識のことばが私の人生で一貫して働き始めたのは、私が聖霊のバプテスマを受けてからでした。けれども、私がその知識のことばを働かせたのではありません。御霊が望まれるままに、それは働いたのです。しかし、それでもまだ私は預言者となってはいませんでした。
知識のことばは牧師としての私にとって大きな祝福でした。私が牧会していた頃何度もあったことですが、ある教会員が車で牧師館にやって来る数分前に、だれが玄関に来ようとしているか、なぜ彼が来るのか、彼の必要は何かを、私は知識のことばによって妻に話していました。二、三分後、まさにその人が車で駆けつけ、主が私に示しておられた通りのことを話し始めました。
そういうことは毎日起こったわけではありませんが、一貫して起こりました。…ほぼ毎週起こりました。また、私の教会員のだれかに問題が生じたら、私は神の御霊によってすぐにそれを知りました。知識のことばは、すべての牧師の生活の中で働くべきです。もし牧師たちが聖霊に敏感になる方法と聖霊に自分をゆだねる方法を知っていれば、きっとそうなるはずだと私は信じています。しかし、そうなったとしても、彼らが預言者となったわけではありません。
よく起こることですが、時折、知識のことばがだれかの生活の中で働くと、彼らはそれを自分の意のままに働かせて何かを起こそうとするのです。彼らがそうする時、彼らは自分では気付かないうちに良くない霊どもに自分をゆだねるようになり、霊的なことで問題に陥ることになります。
しかし、知識のことばが私の生活で一貫して働くようになっても、1952年になるまでは私は預言者の職務に入っていなかったのです。
実際、1950年、イエス様は私に現われてくださり、私にこう言われました。
「あなたが最後の教会を去った時、その時、あなたは私があなたに備えていた奉仕の第一段階に入ったのです」
私は答えて言いました。
「私がこれまで十五年間奉仕に携わってきて、ようやく今、第一段階に入っている、ということでしょうか?」
イエス様は、「そうです」と言われました。
それから彼はこう説明を加えられました。
「生まれてから死ぬまで、私が彼らに備えた奉仕の第一段階にすら一度も入らない奉仕者たちがいます。それゆえ彼らの内の多くが、彼らすべてではなく彼らの内の多くが、若死にし、この地上で彼らの全時間を生きることがないのです」
イエス様は、もしあなたが神のみこころの内にいないなら、ある程度、あなたは不従順の内にいるのですと説明されました。あなたが不従順の内にいる時、サタンはあなたを攻撃することができます。あなたが不従順の内にいる時、あなたは彼の領土上にいるのですから、彼にはあなたを攻撃する権利があるのです。
私は、神の完全なみこころの内にいることと、ただ神の許容的みこころの内にいることとのちがいを経験してきました!神の完全なみこころのほうが、はるかに良いのです!
もちろん、私たちがこの地上で生きている限り、さまざまな試練や試みがあります。けれども、もしあなたが神の完全なみこころの内にいるなら、神はそれらの一つ一つにおいてあなたを見守ってくださるのです。
もしあなたが神の完全なみこころの内にいなければ、あなたは悪魔に扉を開けているのです。そして、あなたが悔い改めて神に従うことをしなければ、神は望まれる通りにあなたを動かすことができなくなるのです。神の完全なみこころの内にいるのは、はるかにまさったことなのです。
とにもかくにも、1952年、イエス様は幻の内に私に現われてくださり、こう言われたのです。
「今から後、私のことばの中で霊の見分けとして知られているものが、あなたが御霊の内にいる時にあなたの生活と奉仕の中で働くようになります」
私が霊の見分けの賜物を受けた時、私が御霊の内にいる時に霊の領域の中で見聞きすることができました。その後、二つの啓示の賜物(霊の見分けと知識のことば)、および預言が私の生活の中で一貫して働くようになりました。
それらは毎日あるいは毎週働いたのでしょうか?必ずしも、そうではありませんでした。集会があるたびに働いたのでしょうか?そうではなく、聖霊がよしとされるままに、それは働いたのです(第一コリント12・11)。けれども、私が預言者の職務に入ったのは、その時だったのです。
しかし、おわかりのように、私が言おうとしているポイントは、神はフルタイムの奉仕へと召された人々を、そういう奉仕職に一晩で就かせることはなさらないということです。
1952年、イエス様が私に現われてくださり、霊の見分けの賜物が私の奉仕の中で働くようになり、そして私は預言者の職務に入りました。その時、私は奉仕に携わって十五年以上たっていました。その当時ですら、私は1953年になるまではその職務に公の場で就いてはいなかったのです。
けれども、私は自分が預言者の職務に就いたことを、当時も宣伝しませんでしたし、今日もあまり言いません。自分の召しを宣伝しなければならない人は、あまり多くは持っていないのです。
あなたの集会を宣伝することは、もちろん構いません。あなたが奉仕のために町に来ていることを人々に知らせてください。しかし、もしあなたが預言者の職務に召されているのなら、そのことを町中に放送する必要はありません。もしあなたが本当に職務に召されているのなら、あなたを通して働く超自然的な備えによって、人々はまもなく気付くようになるはずです。
新参者たちが問題に陥ってしまう点は、自分はその職務で働いたことが一度もないのに、あるいは、それを始めたばかりすぎないのに、自分は奉仕の職務に召されていますよと、みんなに言い触らしてしまうことです!
ことわざにある通り、「論より証拠」なのです。あなたは何よりもまず第一に、みことばを宣べ伝える者、あるいは、みことばの教師でしょうか?
あなたの数々の預言は実現していますか?それらの預言は神のことばと合致していますか?
あなたは他の人々から教えを受ける姿勢を持っている人で、他の人がお願いしやすい人でしょうか?それとも、あなたはどこへ行っても争いや問題を起こしていて、あなたが説教するどの教会からも敬遠されているでしょうか?
これらが、あなたの奉仕についての真のテストなのです。まず、あなたの奉仕が是認されるものとして立証されるようにしてください。聖書はこう言っています。
一人一人に、自分のわざを是認されるものとして立証させなさい。その時、彼は自分に対してのみ、誇るものを持つことになります」(ガラテヤ6・4)
あなたを通して時々御霊の賜物が働くからというだけで、あなたは預言者だというわけではありません。御霊に満たされている信者は、必要が生じる時、時々啓示の賜物の現われを経験するかもしれません。結局のところ、聖霊は信者の内におられ、人々の必要に応えるために御霊の賜物を通してご自身を現わしておられるのです。
けれども、啓示の賜物が時々現われることと、五つの奉仕の職務の一つに召された人を通して霊的賜物が、より一貫性をもって働くことには、大きなちがいがあります。今日、人々が見落としているのは、その点です。
もちろん、聖書は、信者はみな預言することを熱心に求めるようにと勧めています。
第一コリント14・31は、「あなたがたはみな、一人ずつ預言できる」と言っています。
(中略)
たとえば、使徒21・9は、ピリポには「預言する」四人の娘がいたと言っています。しかし、彼女たちが預言したからというだけで、彼女たちは預言者の職務に就いていたわけではありません。
ある人たちは、御霊の啓示の賜物の、目を見張らせるような現われによって預言者が働きをするのを見て、自分もそれができると思うのです。そして、彼らは啓示の賜物を使って預言しようとします。しかし彼らは、肉によって預言しているか、それとも、オカルトの力の感化を受けているか、そのどちらかなのです。
預言者の職務に召されている人は、フルタイムの奉仕の職務に召されているのです。彼らはによってその奉仕に召され、聖別されています。自分で自分を召すことはできず、何かの奉仕職に自分で自分を就かせることもできません。
(中略)

神があなたをキリストのからだの中のあなたの場所に置かれるのに任せなさい

もし、神はあなたを奉仕職に召されていると思うなら、それが預言者職であっても、神がその職務に就けるのに任せてください。どんなにしても、あなたは自分でその職務にすぐに入ることはできません。あなたが自分で自分をその職務に置こうとしても、きっとあなたはそのための用意ができていないはずであり、あなたはそのことで混乱してしまうでしょう。
けれども、神はご自身がよしと見られるままに、ここで少し、あそこで少しと、あなたの霊的成長を少しずつ増し加えてくださるはずです。
もし神が本当にあなたを預言者の職務に就けたいと望んでおられるなら、神がそれをなさるままにゆだねてください。あなたが霊的に成長していき、神があなたに与えておられることを忠実に行なっていくなら、最終的に、神があなたを信頼して任せることができるとご覧になる時、神はあなたをその職務に就けてくださることでしょう。
もしあなたが霊的なことがらに関して新参者であるなら、神が今日あなたに行ないなさいと召しておられることを忠実に行なっていてください。
あなたは、「真理のことばをまっすぐに切る、恥じることのない働き人として、是認された自分を神にささげるよう熱心に努めなさい」(第二テモテ2・15)
神の御霊が使徒パウロを通して、「新参者を職務に就けてはならない」と言われたのには理由がありました。新参者はすぐにプライドによって傲慢になりやすく、それは悪魔に扉を開けることになるのです。
高慢にされて、悪魔のさばきに落ち込まないためです」(第一テモテ3・6)
自分で預言者の職務に入ろうとする新参者が大ぜいいます。サタンが試みた時にプライドによって傲慢になった者たちが大ぜいいました。そして、彼らの人生も奉仕もだいなしにされてしまいました。ある人々は自分の霊の内で、神は自分を預言者の職務に召しておられると感じたのでしょうが、神が自分をその職務に置かれるのを待たずに、自分でその中に飛び込もうとしました。
さらに、預言者の職務での奉仕にはものすごく大きな責任がかかっていることを、キリスト教界は悟る必要があります。それが、預言者職は新参者のためのものではない理由の一つなのです。
こう言う人々がいます。
「私は預言者として働くことができたらいいのに、と思います」
何ということでしょう、愛する主よ!
もし実際に彼らがその機会を持ってみれば、おそらくそれを望まなくなるはずです。それに伴う責任がものすごいからです。
たとえば、会衆を見渡した時、自分の知っている人が、ちょうどその晩、まもなく死のうとしていると御霊の賜物によってわかるとすれば、それはものすごく大きな責任のあることです。
なぜ彼らがまもなく死ぬのかを自分でわかる時もありますが、わからない時もあります。その知識をどうすべきかを知るには、神の知恵と聖霊の導きとが必要です。自分が知っていることを何でもその人にいつでも告げていいとは限りません。ただし、主によって特に指示を受けているのでなければ、です。
神の御霊によって自分が見たり、知ったりするために、この世で預言者の職務で奉仕することほどむずかしいものはない、ということも時々あるのです。
私が数々の集会で経験してきたことですが、私が預言者の職務に立って会衆を見回すと、霊の領域の中が見えました。人々のからだのどの部分が悪いか正確にわかったことは、何度もあります。
また、時々、神の御霊が望まれるままに、人々が病気になっている理由を私が知ることがあります。御霊の啓示の賜物によって用いられ、ぴったり聖霊の導き通りに奉仕するのは、責任重大なことです。
皆さん、この職務は新参者向きのものではないのです!
ですから、あなたは、神があなたあなたの奉仕を進展させてくださるのに任せる必要があるのです。それがどんなものであってもです。神があなたを備えさせるにつれ、人々はあなたの内にある神の賜物に気付くようになります。神があなたを預言者職に召しておられると思うなら、学びをして、自分を是認される者として示してください。
霊的に成長し、成熟してください。
他のさまざまな分野でも、忠実に神に仕えてください。
あなたを成熟させ、あなたを試した後で、より責任の大きな立場にあなたを就かせることでしょう。
神の知恵にしっかり信頼していてください。そして、あなたが自分のなすべきことをなし、みことばにおいて自分を備えていくにつれ、神はご自身の知恵の中でご自身の側のなすべきことをなさるはずです。
神はあなたを導き、あなたを道案内してくださいます。もしあなたがその職務に召されているなら、神はあなたを自然の分野でも霊的な分野でも成熟させ、その後で神がその職務に就かせてくださることでしょう。

P. 204-207

〔預言のことば〕

奉仕者の妻たちも含めて、奉仕に就いている人々の中にも、御霊の賜物の分野で、ある程度用いられ、その後、いくつかの点でミスを犯し、傷つき、「私はもう二度とあんなことはしません」と言った人々がいます。
しかし、神の御霊は言われます。あなたの内にあるその賜物をふたたび燃え立たせなさい。そして、その傷を取りのけて、「今度はミスを犯さないようにしよう」と決意しなさい。
あなたが御霊によって歩み、御霊によって働きをしていく時、人々はあなたを信頼するようになり、あなたはあなたの行ないにおいて祝福されるようになりまず。あなたの周りにいる人々も、あなたを見て、「確かに彼らを通して聖霊がご自身を現わしておられる」と言うようになります。

また、過去のあやまちや失敗、また、さまざまな罪によって自分の霊がまひしている人々がいます。奉仕に就いている者の中にも、「もう私はこの分野の奉仕をすることはないだろう。人々は私に信頼してくれないだろう」と思っている人々がいます。
しかし、主はこう言われます。過去は過ぎ去っており、忘れるべきです。イエスの血はすべての罪から清めており、わたは、あなたがたを、いちども悪を行なったことのない者であるかのように見ています。
それゆえ、その賜物をふたたび燃え立たせなさい。あなたがたの上への聖霊の油注ぎにより、あなたがたの内にある賜物を。そして、ふたたび御霊に自分をゆだねていきなさい。
あなたがたが御霊に自分をゆだね、その油注ぎのもとで奉仕していく時、かつてあなたがたが御霊の内にあっていたのと同じレベルに自分が戻って行くことがわかるようになります。さらに、あなたがたはそこから進み続けて行くのです。
そして、あなたがたの上に御霊の二倍の分け前があるかのように見えるようになります。人々はあなたがたを見て、驚き、「ああ、何とすばらしい神の恵みだろう」と言うでしょう。
そして、すべての栄光は、人間ではなく、私が受けることになる、と主が言われます。神のわざは、こうして地に成し遂げられることになります。

また、あなたがたの奉仕の中で起こり得ると語られたことについて、あなたがたが不信仰にそれ、「そんなことは起こり得ない」と言いそうになることがあるでしょう。しかし、あなたがたが忠実で、私とともに歩み、聖霊の流れとともに歩むことを学んでいく時、それは確かに成就します。あなたの周りの者はみな、あなたが私の愛する者であって、御霊によって備えを与えられており、神に召されており、福音を世界に伝えるべき資格のある者であると知るようになります。

それゆえ、喜びなさい、大いに喜びなさい。なぜなら、私のからだである教会を通して、刈り取られるべき輝かしい収穫と、御霊の輝かしい働きが、この地上にまさに現われようとしているからです。こうして、神のわざは成し遂げられ、大いなる喜びが起こるのです」

〔聖別の祈り〕

献身と聖別の祈りとして、次の祈りを心からささげてください。

お父さま、私は心から決意します。私は聖霊に私をゆだねます。私は神の御霊によって動かされるようにします。私は神のことば通りに生きます。なぜなら、みことばと御霊は一致しなければならないからです。
私は、聖霊とともに流れる方法を学んでいくことを心から決意します。御霊の賜物によって奉仕すべき油注ぎがなければ、私はそのままみことばを語り、結果を神にゆだねます。
油注ぎが来る時、聖霊が指示される通りに聖霊の油注ぎのもとで私は忠実に語り、また奉仕します。そして私は神と神のことばに私自身を聖別して献げつつ、教会の頭であられる主イエス・キリストが私をキリストのからだにおける私の場所に置かれるに任せ、彼が望まれ、お選びになる通りに奉仕します。
お父さま、私は、イエス様の御名に決して非難をもたらさないように奉仕し、生活することを、心から決意します。私はイエス様の御名があがめられるようにし、人々にとって祝福となるように努力し、私自身の栄光を望まず、私の名前や奉仕があがめられるようになることも望みません。私が行なうどんなことにおいても、イエス・キリストが栄光と称賛をお受けになることを私は願い求めます。アーメン。

(本書は第一部の続きです。第一部『神は人々に賜物をお与えになった』も併せてお読みください)

(終)

『教会・牧師・預言者』(原題:HE GAVE GIFTS UNTO MEN)ケネス・E・へーゲン著、エターナル・ライフ・ミニストリーズ発行、1998年発行、定価(本体 ¥2390円+税)P. 5, 63-82, 204-207

【新しく生まれ変わる!(新生の祝福)】
https://note.mu/risingdestiny/n/nb11945f61b7a


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