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実態よりもイメージを大切にしたい人々〜トイレやお風呂の安全よりも、トランス特に女性を槍玉にあげて笑いたい盛り上がりたいだけなのではないのか〜

トランス女性の男女専用スペースの利用について、トランス女性の中に犯罪目的の男性が紛れ込んでいるかもしれないからと締め出そうという声が、SNS上であちらこちらで盛り上がっている。

その度、私は違和感を覚える。

トイレやお風呂の安全よりも、トランス特に女性を槍玉にあげて笑いたい盛り上がりたいだけなのではないのかと。

良いネタですもの。
トランス女性って。

本当に不安を感じるって人の声は、盛り上がる人たちの中にいったいどのくらいいるのだろうか。

ずっと「トランス出て行け!」でその声は守られるのだろうか。

設備や防犯対策や在り方などに、なぜ話が向かないのか。

私は性別適合手術を終え戸籍上の性別も男性から女性に変えて人生の半分ほどを女性として生きている。

トイレにしてもお風呂にしても女性用を利用する。

公共のトイレやお風呂で何かトラブルがあった場合には一般の方と同じように犯罪の危険に晒される。人はパッと見で人の性別や遺伝子などを見抜く力など備えていないのだから。


その根拠に私は人生のおおよそ半分を元男性でなく女性として生きている。

そんな私も犯罪の被害に遭うなんてことは当然ながら嫌な訳で、男女専用スペース問題については、本当に不安や恐怖を感じている人の声に沿った話がなされる事を望んでいる。

また、専用スペースに置いて発生する犯罪が男性前提で話をすることもおかしい話だし、そもそも男性が紛れる可能性とはいえ、男性に間違えられる風貌で専用スペース内にてトラブルになるのはトランス女性に限った話ではないのだが。

では、なぜこの話題がトランス女性ばかりが槍玉にあげたものに終始するのか


先述したとおりネタになるからではないのだろうかと私は考える。

おそらく、専用スペース問題について真面目に向き合い、設備面やトイレの在り方などを話したところで、人は寄ってこない。

また、そのような話をしたところで、最近あった車椅子の話題の如く、被害を恐れる側が我儘だと叩かれるかもしれない。

そこまでいかなくても、考えすぎだと興味を示されないかもしれない。

大半が興味を持つのは、専用スペースの安心安全よりも、そこにいては不釣り合いな間抜けで滑稽なトランス女性の姿なのだろう。

当の当事者が捉える専用スペースについて


あくまで私個人の考えではあるが、そもそも男性が女性用を利用しないというのは当然理解している。自分の性自認云々でそれを超越すべく考慮されるなどとも考えてもいない。

専用スペースに限らず、社会で生きるという事にしても同じことが言えるのかなと思う。

だから、オープンにせずシスジェンダーの男性や女性として社会の中に溶け込んで生きる所謂埋没という生きようとする。

今の社会の枠組みの中で生きるのにはそれが一番スムーズだから。

トランスにとって生きるだけでハードルが高い社会


だってネタにされるもの。
はじかれちゃうんだもの。

例えば埋没のように不自然でない存在であろうとする努力は、私たちが今のトランスでない人前提の枠組みの中で生き抜くためにしてるものだ。

なぜなら、枠組みから外れて生きるには結構ハードル高いからだ。

その一方で、

外から見てネタになるトランスの様を見てただ笑って馬鹿にするのはさぞ楽しい事でしょう。

外から見ていれば別にトランスを馬鹿になんてしていないし、考えすぎだと思われるでしょう。

実際そう考えているのかも知れないが、所謂オカマやオネエと言われるキャラに笑ったりネタにしたりするのはなぜでしょう。

その一方で「私は理解してるつもりだ」と言うのはなぜでしょう。

自分の素性を明かしていなかった頃、たまたまオネエキャラと言われるタレントなどが話題に上がった時に、所謂一般の人との会話の中で嫌ほど聞いてきた言葉だ。

すごい二面性だなと感心すると同時に怖くなる。

この人たちの言う理解って一体何なのだろう。

当事者でない限り、まず当事者のことなど理解できる物ではないと思うのだが。

オネエやニューハーフなどをネタにした笑いが悪なのか

余談ではあるが、

例えばオネエ言葉で所謂オネエキャラな人の見てくれや言葉使いの雰囲気で笑うのか、その人が繰り広げる話術で笑うのか。

この二つには大きな違いがある。

大半は、前者に笑うのだろう。

私はニューハーフ時代にこの点については嫌ほど厳しく教えられた。
オカマを売りにしてるうちは大した事はない。あなたという存在を価値を魅せられる実力を持ってこそ本物だと。

残念ながら、それを教えてくださった姐さんには最後まで褒めてもらえたことはなかったのだが。

人がトランスを笑い物にしながらも自らを寛容であると思えるのはなぜなのか


おそらく実態が見えていないということがあるのではないかと考える。

先述したように当事者自身が、トランスでない人前提の枠組みの中で生き抜くための努力をしているからということだ。

社会の枠組みの中心にいる人にとって、理想的で完璧な不自然さのない当事者であるが故に、当の当事者というのは姿を表さない。

これは、当事者自身が望むものでもある。

一方で可視化されている部分はと言えば、最近でいえばオネエキャラと言われる人たちなど一部の目立つ存在なのだ。

特例法ができて、いや、それ以前から今に至るまでこのようなアンバランスな状態にあったのではないだろうか。

だから、そのどちらにも属さない当事者の姿は想定されず、可視化されている側に勝手に寄せられ笑い物にされたり、本気でない人、ただの女装などと不本意な存在にされてしまう。

埋没する当事者はシスジェンダーとして、トランスとしてはない存在とされ、埋没が叶わない大半の当事者は、自然な存在を装おうとすればオネエキャラの仲間入りとなり、抗えば変な人として見られるようになる。

果たして本当に、あなたが思うほどあなたも今の社会も寛容なのだろうか。

そもそも寛容とは、過失を咎めず許すという意味合いから、私たちについて寛容かどうかと語る事自体本来はおかしいのだが。

一つ言えるのは少なくとも同じステージ上に私たち当事者はいないということだ。

さいごに

ネタになるトランスとしての立ち位置、努力前提の社会のままがいいとは思わない。

配慮しろとかそんな話ではなくて、ただあなた方と同じように、無駄にネタにされ馬鹿にされたり、生きるためだけでなく楽しく自分を磨ける同じステージに立ちたいだけだ。
そう遠くない未来、今とは違った世の中を当事者と言われる人たちが笑って生きられますように。

2021年4月29日 Lisa.K

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