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【鹿児島県】総合診療医・室原誉伶先生が語る離島医療との関わり方〜医者の肩書きを外した個人として〜◆Vol.1 #file8

こんにちは!離島医療人物図鑑のすずきはるえです!

今回は鹿児島県の甑島でお医者さんをやめてお米を作っているという室原先生にお話しを伺いました。




第1弾記事ではこれまでの経緯と今年、先生が医者を辞めることに(!!)したきっかけについてご紹介します。

2年間、下甑島の診療所で勤務されてきた室原先生。今年の計画は…?

----はじめに自己紹介をお願いします

「室原誉伶(むろはら ほまれ)と申します。今年、医者をやっていたら医者8年目になる予定で、いま32歳です。

現在は鹿児島県の下甑島(しもこしきしま)ーあのDr.コトーがいた島ー にいて、去年、一昨年と手打診療所というところで総合診療医として診療させてもらっていました。

島に居たら世の中知らないことであふれてるな、人生医者だけで終わっちゃうのはもったいないのかもしれないなと思って。



 今年はちょっと医者を辞めて、ちょうどこちらに空き家とか、無耕作地みたいなところがいっぱいあるので、そういうところを草払いして開墾して田んぼとか畑をやってみようとしています。

やったことないことをやってみようと、正解か不正解か分からない一年を送ることになりました(笑) よろしくお願いします」

----甑島を選ばれた理由はどういったものだったのでしょう?

「僕はもともとゲネプロ*という日本のへき地医療をする医者を育てる会社に所属していて。ゲネプロが2年前に持続可能な医療システムの構築を目指すという話があって、若手医師を一人探してると教えていただいて、『じゃあ、行きたいです!』と言って行ったのがきっかけでした。」

モンゴルのへき地で研修する室原先生

*ゲネプロ:日本版 離島へき地プログラム:Rural Generalist Program Japan 詳しく知りたい方は下記リンクからご覧ください。


医者という肩書きを外した時の自分の価値

----医者8年目にしてなぜ医者を辞めたのか、きっかけをもう少し詳しく教えてもらえますか?

「医者辞めようと思ったのは、きっかけがいくつかあったんですよね。

一つは長女をここの幼稚園で卒業までさせてあげたいなって思って。僕には子どもが三人いて、長女が年長さんなんですね。長女は2年間この島の幼稚園にいて、いきなり他のところに行って1年間過ごしてそこで卒園で幼稚園が終わりというのは長女に申し訳ないなと思いました。これは子ども主体に考えた結果です。本人に聞いてみたら長女も『ここで卒園したい』と言うので、そうしようかという話になりました。」


 
「もうひとつは、Dr.コト―がいたじゃないですか。Dr.コト―はやはり凄いですよ。40年間この地域を、島を支え続けた医者は偉大で、島にお医者様文化があって、僕みたいな若手のペーペーの医者に対しても、かなり有難がってすごく丁寧に接してくれるんです。  

でも、”自分はこんな人間じゃないぞ”とか、”こんなに人に大切に扱われるべき人間じゃないぞ”と思って、そういうのに違和感を覚えていました。

学生時代はバイトクビになったりとか、バイトの面接に落ちたりとか、酔いつぶれて道路で寝たりとか、そういう感じで生きてきたので(笑)

それから、やはり島だから色々と頂きものとかおすそ分け文化があるんですけど、子どもたちもそういうのを見て『それ誰から貰ったの?』と言うようになっていました。

『買ったの?』という発想より『貰ったの?』という発想が先に入っていて、この環境は普通は当たり前ではないし、これを見せ続けるのが正解なのか分からなくなってきて。

医者・室原誉伶の存在価値から、また別の”医者を外した室原誉伶”の存在価値が分からなくなって、だんだんもやもやしてきて、だったらいっそ辞めてしまおうか、となりました。

医者という肩書を外して、室原誉伶という単体の価値にしてみたいなと思って。

室原の価値は今年は暴落するはずです(笑) 

室原への価値が暴落する様をみて、自分はやっぱりこういう人間なんだというのをまずは受け止めようという、そういう一年間なのですよね。」

----価値が暴落…。やはり島民からの期待値が実際の自分の能力と違うぞ、と違和感を感じて医者を辞めたのですね。

自分の考えている自分の人間としての大きさを超える評価を周りがしてくれるようになったんです。それは場所が変わってから、自分にとって違和感を感じるくらいに起こったのだろうと思うのですけど。

診療して全部正解を出すような神様でもないし、診療に失敗したり悩んだりしてるのに、なんだろうと思って。

俺はこのままだったらダメになる気がする、自分を見失いそうになるなと感じました。だから、価値の暴落を見定めようと。」

----甑島に来てそうなったのでしょうか?前にいた島ではどうでした?

「東京の川北病院というところで初期研修の3年間が終わってから、4年目で長崎県の上五島病院に行って、6年目で島根の隠岐島前病院というところで超音波診療を教えてもらって、6~7年目で下甑島に来ました。

それぞれの島で人口の規模が違ったり、地域の人と関わる濃密さも変わってくる中で、ちゃんと顔が見える関係を周りの人と地域の人と構築できたのが、今回ちょうどよかった規模感だったのかもしれないですね。」


今回は、室原先生がどうして甑島で医者をやめて農家をしたのかを伺うことが出来ました。

家族への思いだったり、本当の自分の価値観を探すために一旦医者をやめられたんですね。

次回は、室原先生が医者を辞めて新たに始めていること、これから取り組みたいと考えていることについてご紹介します。お楽しみに!


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下甑島について、もっと知りたい方はこちらをご覧ください。


この記事を書いた人

 すずきはるえ  修士課程2年
東京都出身。現在は臨床検査技師として長野県の病院で働きながら社会人大学院生として奮闘中。
臨床検査技師は医師や看護師と比べて、将来的に機械やAIにとって変わられる職業と言われている中で、これからの臨床検査技師の役割を模索している。将来の夢は職種や地域間の間をつなぐことができる医療人になること。

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