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破産歴史考 〜その1〜

《参考文献》
『徳川時代の文学に見えたる私法』(中田 薫)
『近世に於ける身代限り及分散続考』(小早川欣吾)
『西鶴集・下』(日本古典文学大系四八、岩波書店)
『日本永代蔵』(角川文庫・現代語訳)
『全国民事慣例類集』(司法省)
『民事訴訟・執行・破産の近現代史』(園尾隆司)
『江戸時代庶民の破産と再興』(宇佐美英機)※福井県文書館講演
『近世の出世証文』(宇佐美英機)

「破産」という言葉は現代でも使われている用語ですが、法人・個人を問わずいつ頃から使われ始めたのでしょうか。また「破産」が意味している事象はいつ頃から発生していたのでしょうか。今からこの謎を探ってみましょう。

起源を江戸時代まで遡ると「破産」には二つあって、自己破産を意味する「分散」と、債権者が申立する強制破産手続である「身代限り」とがあります。

「分散」は、債務者の申出によって全財産を債権者に提供して換価処分し、債権者に割当して弁済するというものです。また分散は別な言い回しとして「身上仕舞い」、「身代仕舞い」あるいは「割賦」と言ったさまざまな言い方が地方ではありました。
一方「身代限り」は債務者の財産に対する裁判上の強制執行であって、分散とは異なり必ずしも多数の債権者が競合することを要しません。ただしこちらの手続きが認められていたのは一般の町人と百姓です。

更に詳しく見ていくと、『徳川時代の文学に見えたる私法』(中田 薫)には「徳川時代分散と称するはフランスの中世に破産手続きの一種として行われたる財産委付に相当するものにして、競合せる多数債権を満足せしむること能わざる債務者が、債権者の同意を得て自己の総財産を彼らに委付し、その価額を各債権に配当せしむる制度なり。この分散は身代限とは全然別物なり。身代限は債務者の財産に対する裁判上の強制執行にして、これが実行には必ずしも多数の債権が競合することを要せず。これに反して分散は常に多数債権の競合を前提とするものにして、かつ裁判外における債務者と債権者との協約に依りて成立するものなり」という記述があります。

つまり、「分散」は公権力の介入しない自己破産であって、「身代限り」は公権力の介入する強制執行というものということになります。また後者は債権者が一人であっても成立する行為というところに特徴があります。前者は公権力が介在しない制度であるが故に、日本各地で慣行として行われてきており、その内容は幕末から明治初年にかけての各地方での法律慣習を編纂した「全国民事慣例類集」の第三篇にも書かれています。

分散は公権力の介入しない自己破産と言いましたが、実際の手続きに当たってはその許可を得るために町村役人に申出る必要があり、債務者は債権者の同意を得て自発的に分散の許可を町村役場に願い出て、その後に手続が進められます。

「分散」も「身代限り」と同様に債権者全員が同意する必要はなく、その大多数が承諾していれば足りることから、「分散」に同意しない債権者の請求権や分散に同意した債権者への未配当の債務はどのように取り扱われるかについても何度か変遷があったようですが、寛政一二年(1800年)以降は、全く請求を行使しなかった者だけに「跡懸り権」という再請求権を認める形になったようです。この再請求権の証とされたものが「出世証文」と呼ばれるもので、滋賀県等で現物が見つかったりしています。ただし大阪・京都・滋賀といった地域に限定されたもののようです。

分散者にとっての不利益面としての様々な差別措置としては、選挙権・被選挙権の剥奪、羽織着用や雨傘や下駄の使用禁止、宗門帳への「沽却人」「籍拂」「亡名」等の記載などが挙げられます。また表町でない雨露をしのぐ小屋程度の居住が許され、夜間のみの外出も禁止されていたようです。これらは明治13年に司法省が刊行した前掲の「全国民事慣例類集」に以下のように詳述されています。👉
『身代分散する者は世話人を頼み、各債主へ協議し一切の財産を売却しその金を分配して義務を果たす。山間の僻村にては分散せし者は村内に住居することを禁じ村外に小屋を造るにも尋常の建て方を許さず掘立柱逆葺と唱え礎石を用いず茅茨を逆に葺く例なり』(美濃国厚見郡・各務郡・方縣郡)

こうした厳しい制裁があった一方で、大阪では「三郷借家請負人」と言う制度で、大阪三郷に各一か所ずつ、分散者等を収容する長屋を設け、請負人がその長屋の世話人となって、分散者が、債務を完済して自立できるようになれば、復権する道を提供していたようです。

一方の「身代限り」について詳しく触れると、享保四年(1719年)に江戸において採用されて以降、幕府法として確立した強制執行の公的制度で、寛保二年(1742年)までにまとめられた「公事方御定書下巻」に記載されているものです。身代限りは奉行所が百姓や町人に対してすぐ申しつけるのではなく、その前に一定の期間内(たとえば30日以内)の完済を命じ、その期間内の完済ができないときには更に分割返済を命じ、このいずれもが出来ないときに初めて身代限ということになったようです。しかも、分割金を支払わないときでも、すぐに身代限となったのではなく、その前に債務者への拘禁措置としての手鎖または押籠の手続がとられました。なお、身代限が執行された後の残債務については免責が認められていませんでしたので、債務者が弁済能力を回復したと認められたときには、債権者はいつまでも残債権を請求することができました。

この「身代限り」は、明治政府成立後の明治五年(1872年)公布の華士族平民身代限規則(明治5年太政官布告第187号)によって百姓・町民だけでなく全ての階層が対象とされるとともに、私的整理制度であった「分散」と統合され、更にその後に民事訴訟法および(旧)商法・家資分散法によって近代的な破産手続が制定されると、それにとって代わりました。

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