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明治期の脚気論争あれこれ(1:時代背景)

noteアカウントを作って1年が経ちました。ものぐさの極み。最初のエントリーは明治時代の日清・日露戦争あたりにあった陸海軍とその周りの脚気論争をテーマでつらつらしていこうと思います。

私は近代日本医療史が好きで個人的に調べまくってるんですが、その入り口になった出来事です。出会いは、森鴎外が好きな生理学の先生がおすすめしてくれた歴史小説でした。「自分の推しがけちょんけちょんにされている小説をおすすめするなんて、なんて変態な先生なんだ」と思ったことを鮮明に覚えています。この先生は自分の留学先も、科学の先端がアメリカに移ったこの現代でドイツ・オーストリアを選んていたので、周りの先生からも変態扱いされていました。大好きな先生。

脚気に戻ります。

19世紀末期、脚気は東南アジアの一部の国でのみ観測されていたので風土病という認識だったそうです。脚気はチアミンというビタミンの一種が欠乏しておこる栄養障害で、これがわかるのは大正に入ってからです。

日本では江戸時代に、白米が食べられる江戸でだけ発生するということで”江戸患い”と呼ばれていました。地方は食べられて半搗きや雑穀だったそうです。精製された白米にはでんぷん質が多くて、ビタミン類が残らなかったんですね。

そんな日本も文明開化で軍備拡張のうち、兵隊さんが脚気になって満足に働けないということになりました。これの背景はいろいろありますが、陸軍に限っていうと兵士の食事は白米と現金支給だったことが理由として挙げられます。給食制度ではなかったんですね。自分で自分の食べる米を炊き、おかずは現金を渡しておくので自前でなんとかしろ、という精神です。下士官兵はこの現金を食事に充てず、地方にある実家などへ送金して家族の生活の足しにしていたそうです。なので兵隊さんは現物支給のぴかぴかの白米ばかり食べて脚気になる人が多かったんですね。なんかで読んだ。

論争前の海軍の食事情は、不勉強なので知らないんですが、同じような状況だったんでしょうね。そういえば大河ドラマ"坂の上の雲"の中でもっくんが甲板で七輪で何かを焼いてる描写があったかもしれません。私の幻覚かもしれません。

というところまでが時代背景?予備知識?です。

時は明治16年、少尉候補生遠洋練習航海で脚気を大量に出したとうところから歴史の物語が始まります。もっと前かもしれないです。まだ築地の時代かな?海軍兵学校の卒業試験みたいなやつですね。艦のヒエラルキーにおいて、水兵さんより下という少尉候補生です。練習艦の名前が龍驤。艦これで有名なあの子。チガウヨ、当時は帆と機関のハイブリッドダヨ。

脚気患者の発生を改善するように命が下ったのが当時、海軍軍医総監(まだだったか忘れた)高木兼寛です。タカキさん。

高木は宮崎県宮崎市の出身です。当時は薩摩藩領なのかな?生家は広場みたいになっていて石碑だけ残っています。車でしか行けない、すごい坂が急なところでした。軍医になってからイギリスに官費留学してイギリス流医学を修めて帰国しています。ここがミソだと私は思います。イギリスはジョン・スノウという村医者がいた国で、公衆衛生学・医療統計が発達していました。この一文の前後に因果関係があるかどうかは知らないですが。当然高木も医療統計を学んで帰ったと思います。これは現代医学のモットーである科学的根拠に基づいた医療という考え方の芽胞だなあ、と思ってます。数字は嘘つかないというやつです。科学的根拠だけが医療のすべてじゃないと思いますけどね。

このOS(オペレーションシステム)を持っていたことが、陸軍と海軍で分かり合えなかった理由のひとつな気がするなあ。

で、高木が何をしたのかを、次の記事で紹介したいと思います。ちゃんと文献ひっくり返して事実確認しようね。


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